BACK
エリックは、仕事帰りに酒を飲んで帰るといった習慣は無い。酒に対して苦手意識がある訳でもないのだが、何かしらの誘いが無ければ別段進んで飲む理由が無いためだ。酒の味を覚えれば別なのかも知れないが、あえて覚える程の理由もまた無いというのがエリックの考え方だった。
そんなある日の帰宅途中のこと。帰路の途中に差し掛かった商店街の一画にある店先に、朝は見なかった大きな黒板が立てられているのが目に入った。何気なくそれを目にしたエリックは、思わず黒板の前で足を止めてしまった。そこには、白墨で牡蠣のフェアをしている旨が書かれていたからだ。
エリックは、物心がついた頃からひときわ牡蠣に目が無かった。他の家族はさほど牡蠣に執着心は無いのだが、エリックだけは牡蠣と聞けば食さずにはいられないほどだった。そんなエリックだったからこそ、この告知を目にした直後には店の中へ入らずにはいられなかった。
初めて入る店の中は思ったほど広くはなく、席数もテーブル席が三つの他は狭いカウンター席があるだけだった。その少ない数の席も既に埋まっていて、エリックは一つだけ空いていたカウンター席にどうにかねじ込まれるように着席した。そして店員に牡蠣のグラタンと焼き牡蠣を注文し、少し悩んだ末にチーズと白ワインも追加注文する。牡蠣が焼き上がるまでの間が手持ち無沙汰になる事と、狭い店内で自分一人が酒を飲まない姿を気にしたためだった。
聖都には港もあり、海産物には年中困ることはない。けれど、思い返せば今年はまだ一度も牡蠣を食べていなかった。今年は本当にろくな事がなく、気分も鬱屈としがちである。やはり好物である牡蠣を食べていないと、気持ちも落ち込む一方である。エリックはそんな事を考えながら、牡蠣の焼き上がりをチーズと白ワインで待った。
やがてカラフェの残りも半分ほどになろうかという頃、まずは焼き牡蠣が出来上がりエリックの前へ出された。例年よりも小振りだという風評など気にならない印象で、たっぷりと四つ大皿に並んでいる。エリックはまずその内の一つを、レモンだけを絞って一気に啜った。たちまち口の中に広がる牡蠣とレモンの織り合わさった香気は鼻を抜け、遅れて牡蠣の汁がじわりと染み出してくる。エリックは火傷しそうなほど熱い牡蠣を最後までしっかりと味わい尽くし、そしてゆっくりと飲み下す。牡蠣は健康にも良いと知っているが、そんな学説とは無関係に牡蠣を取り込んだ自分の体がみるみる元気になっていくような気になって来た。
次は魚醤で食べよう。そんな事を思った時だった。
「焼き牡蠣とは、お若いのに通ですな」
突然、右隣の席から声をかけられた。エリックは魚醤を戻しながら小首を傾げる。
「え、まあ。生で食べる以外なら、これが一番早いですから」
「それもそうでしたね。おっと、さあさ熱い内に」
話しかけて来たのは、四十代も半ばといった中年の男だった。馴れ馴れしさが気にならない朗らかさがあり、焼き牡蠣を再開しつつもエリックはさほど悪印象を彼には持たなかった。おそらく、この店の常連の一人か何かだろう。さして気にも留めずに、二つ目三つ目とエリックは次々に牡蠣を平らげていった。
「どうやら、牡蠣が随分とお好きなようですね」
「ええ、まあ。それに、最近は仕事がなかなかうまくいかなくて。今日は景気付けも兼ねてるんです」
「失礼ですが、お仕事は何を?」
「僕はエリック、内閣府に勤めています」
「おお、官吏でしたか。内閣府勤務となると、エリートでしょうに」
「いえ、そこまで大したものでは」
務めている部課の名前までを隠す必要は無かったが、仕事内容をうまく伝えられる自信が無く、つい嘘をついてしまった事に後ろめたさを持つ。けれど、これも機密保持のための方便だと自分へ言い聞かせる。
「ところで、あなたは何をされている方ですか?」
「え、私ですか? いやあ、大したものではありませんよ」
こちらに話させておいて、自分は黙るとは。
別段怒る程の事でもなかったのだが、エリックは誤魔化そうとする所が無性に気になって仕方なく、何度もしつこく男に問い詰めてしまった。やがて男は根負けしたのか、やや苦み走った表情で控え目に答えた。
「実はですね、私は祈祷師をしているんですよ」
「祈祷師? 教会の方でしょうか?」
「いえいえ、違います。私が専門とするのは、亡くなった方々の声を聞き取る事です。要するに、死んだ人間と話がしたいという方のニーズに応える仕事、といった感じです。ね? なかなか大声では話せないでしょう?」
なるほど、それは胡散臭い。そうエリックも苦笑いを浮かべる。死んだ人間になど、声どころか言葉を話す仕組みすら無いのだ。それが出来るなら、警察も今日のように苦労はしていない。けれど、先に彼の人柄に触れたためか、さほど嫌悪感は感じなかった。むしろそれは、人の死によって心を痛めた人へ対する何か新しいカウンセリングのアプローチ法のような印象さえ持った。
「あの、失礼ですが。それって、僕についても出来るのでしょうか? 例えば、亡くなった僕の先祖の声を聞くとか」
「御本人にその意志があるのであれば。話したくない人に話をさせるのは、生きてようがなかろうが難しい事ですから」
その時、エリックの中に抗い難い好奇心の波が溢れかえった。死んだ人間の声など、聞こえるはずはない。人は死ねば消滅する。声だけが聞こえるなど、科学的にも有り得ないのだ。けれど、今の自分が実際に従事している業務は、まさにその有り得ない事が起こってしまう部署だ。それがいつの間にか非現実的な事への忌避感を和らげていたらしく、エリックには彼の言う事がただの戯言ではなく試す価値のある何かに感じられた。
「ちょっとだけ、試して貰うのは駄目でしょうか?」
「ええ、構いませんよ。あなたの祖先は、かなり人の良さそうな方々ですから」