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 短期出張から戻ってからも、エリックだけは直帰せずに執務室へと向かった。今回の報告書と遺族宛てのレポートを作成しなければならず、それらを全てエリック一人に押し付けられたせいである。
 定時前の夕刻ではあったが、執務室には室長の姿は無かった。彼女は仕事で各庁舎に赴く事もあり、外出による不在はさほど珍しくもない。初めはウォレン達を野放しにしている事に対する非難めいた心情もあったのだが、今ではその意外な多忙さから幾分同情気味になっていた。
 長旅の疲れもあり、エリックは早めに片付けてしまおうと早速作成へと入る。既にそれぞれの草案は作成しており、小一時間もかからない見込みだった。早く終わらせて帰宅し、ゆっくりと眠りたい。そんな気持ちの方が今は上回っている。
 執務室で一人黙々と作業に取り組み、やがて当初の見込み通り小一時間程でどちらも作成が終わった。後は内容をそれぞれ室長に確認して貰い検印を貰うのだが、肝心の室長は未だ戻ってきてはいない。そもそも今日執務室へ戻ってくる確証もないため、エリックはそれぞれの書類は室長の机の上へ置いて帰宅する事にした。
 書類と簡単なメモ書きを室長の机の上へと置く。そして帰り支度でもしようかと思った、丁度その時だった。ふとエリックの視線が、普段はまず見る事のない室長席の側にあるファイルの棚に止まった。その棚は、普段は主に室長が自分の仕事用の資料等を保管するために使っているのだが、別段誰にも制限をかけている訳ではない。ただ、室長以外は特に用事がないので気にかけていない、それだけの所である。
 言うなれば、単なる好奇心だった。エリックは、普段まじまじと見る事のない棚に視線を巡らす。そこには、実に様々なジャンルの資料が並べられていた。人口統計や犯罪白書、年代別の動向や景況感のレポートなど、とにかく聖都を中心とするセディアランドについての情報は全て網羅されているのではないかとすら思えた。一見すると特務監察室には不釣り合いなほど充実したラインナップだと思ったが、やはりこういった知識が根底にあるからこそ的確な指示が出せるものなのかも知れない。エリックは、普段特別意識する事もない室長が如何に優秀な人物であるか、改めて思った。
「ん? これは……」
 ふと、エリックの目にとあるファイルの背表紙のタイトルが止まる。それは、セディアランドにおいて年間の死者と死因を分析し記録した統計のファイルだった。強い関心がある訳ではないが、業務上人の死に関わったばかりとあってか、何となしにそれを手に取ってみてしまった。
 自席に腰を落ち着け、まずは目次へ目を通す。タイトル通り、単純な死者数とその死因、過去十年の推移と傾向、更には社会的な出来事や要因と結び付けた分析など、実に様々な角度から切り出した充実した内容となっていた。タイトルだけ見ると単なるオカルトめいたものに見えるが、実際はかなり現実的で的確に死因を分析した資料である。どちらかと言えば、厚生省の官吏向けの内容だが、この分析ならば様々な省庁にも応用が利くかも知れない。国の安定と繁栄が仕事である官吏にとって人が死ぬ理由を知る事は、自らの業務内容の改善へ繋げられるのだ。
 これは予想外に自分の後学のためになる資料である。そう思ったエリックは、時間が経つのも忘れ夢中で読みふけった。特務監察室の業務へどう反映させるのか、他の部課へ転籍出来る可能性はあるのか、そんな事も頭を過ぎったが、少なくともこういった知識を得る事は自らのプラスになる事に間違いはない。
 資料を読み進めていると、やがて死者数と死因についての地域別のまとめの項が始まった。ここからは、どの地域にどんな死因が多いのか、その傾向と推移の分析が記録されている。生まれも育ちもこの聖都であるエリックは、あまり他の地域については想像力も働かず、いまいちピンと来ない内容だった。ただ、同じセディアランド内でもはっきりと死因数の違いは出ており、如何に生活様式が異なりそれが死因数の傾向を変えるのか、それらを知るのに有益な分析だとも思った。
 そしてエリックは、興味本位でレッドアロー峡谷の地域について調べてみる事にした。あの地域は何処に該当するのかと思っていたが、項目としてレッドアロー峡谷が単体で存在しており、早速その項をめくってみる。
 まずは、死因の傾向。それを読んだエリックは、思わず疑問の声を漏らした。レッドアロー峡谷において最も多い死因は、驚くことに不審死だったからだ。単純に医師の立ち会っていない死が不審死に数えられるのかと思ったが、集約項目としては別に自殺が意外と小さな数字で挙げられている。レッドアロー峡谷での死因は、不審死、事故、他殺がトップで、後はほぼ横並び。事故や他殺は聖都でも多い死因だったが、不審死はどの地域と比べても明らかにその数が異常なほど多い。
 不審死の定義は何なのか。
 すぐさまエリックは、不審死という単語を手掛かりに資料を最初から確認し始めた。そして、端から端まで舐めるようにじっくりと読んでいく内に、不審死についておかしな点がある事に気付いた。セディアランドにおいて、死因の断定には必ずそう断定する証拠が必要であるのだが、それは自殺も他殺も同じである。では、証拠が見つからなかった場合はどうなるのか。それが、不審死の正体だ。定義に問題があるとは一概には言えない。事実、他の地域については別段不審死が異常な数ではないからだ。では、何故レッドアロー峡谷は極端に不審死が多いのか。
 レッドアロー峡谷は非常に辺鄙であるため、例え他殺でも目撃者は期待できないように思われがちである。しかし実際は、極端に交通手段が限られているため、犯人の特定は意外なほど容易だ。では、どうして他殺ではなく不審死に計上されるような事態が頻繁するのか。しかも、その事実を受けても政府は意図的に放置すらしている。
 エリックは一つだけ、その可能性について推論を出した。それは、レッドアロー峡谷というのは何らかの理由で殺さなければならない人間を、あくまで目立たないという範囲内で殺すための場所ではないのか、という事だ。仮にレッドアロー峡谷で人が死んだと報じられても、大衆は自殺だと思うだろう。自殺の名所で不審死という言葉は、嫌でもそれを連想させる。これならば、あまり違和感を与えずに人の死を報じる事が出来る。
 けれど、それならば自殺に擬装した方が楽ではないのだろうか。何故不審死となるようなやり方をするのか。
 それは、不審死という見せしめの手段をセディアランドが必要としているからなのかも知れない。社会の安定に必要だから、政府も黙認しているのだ。真に正しい事をするのなら、この不自然な数値を公表するべきである。けれどエリックは、レポートを書き直すには至らなかった。何故なら、それは特務監察室が避けるべき社会の混乱をいたずらに引き起こすだけだからだ。
 法の届かないこの地は、社会の安定のために不可欠なものなのだろうか? エリックにとってレッドアロー峡谷は、底知れぬ悪意が渦巻いている場所に感じられた。