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 死にたい。
 それが最近のエリックの口癖になっていた。もっとも、実際に自殺願望がある訳ではなく、具体的な行動も起こしていない。今の自分を取り巻く環境を一度御破算にし、何もかもを最初からやり直したい。そんな願望が籠もった、悲痛な心の叫びである。
「おはようございます」
 朝、いつもの時間に執務室へやってくる。そこは今朝も誰もおらず、閉め切ったカーテンのせいで薄暗くなった空間が広がるばかりである。室長のラヴィニアは、午前中は本庁などに公務で行っている事が多い。ルーシーは定時を過ぎなければやって来ず、ウォレンにいたってはそれよりも更に遅い。室長は仕事上の都合なのだから仕方がないにしても、他の二人は明らかな怠慢だ。だが、それを自分が指摘した所で治すはずも無く。そもそも室長が黙認してしまっている以上、改善のチャンスは無いに等しいのだ。
 カーテンを開け、誰に頼まれた訳でもなく執務室を簡単に清掃し、コーヒーを準備し、自身のデスク周りを整理する。それでようやく始業時間となるのだが、エリックは未だ執務室に一人である。
「うーっす。来てるかあ?」
 それから程なくの事だった。ウォレンがいつものやる気の感じない間の抜けた挨拶をしながら、不意に執務室へ現れる。エリックはこれにいささか驚いた。まだ今日はルーシーすら登庁していない時間だと言うのに、先にウォレンの方が来るとは思いも寄らなかったからだ。
「なんだ、まだお前だけか。相変わらずルーシーの野郎は仕事舐めてるな」
「ウォレンさんが、それを言いますかね。それで、どうしたんですか?」
「おう、今週は遠出するぞ。楽しみだろ? 最近は内勤ばっかりだったし、お前も退屈だっただろうしな」
 だから、今朝は早いのか。まるで遠足当日の子供みたいだ。エリックは苦笑いを浮かべる。
「おっと、そうだ。お前、自殺したいとか考えてるか?」
 突然、ウォレンにそんな質問を投げかけられ、エリックはぎくりと背筋が凍りつく。
「ま、まさか! どうして僕がそんな事を考えなくちゃいけないんですか!? 別にここの仕事に不満なんてありませんよ!」
「何だよ、そんなムキになることないだろ。それくらい分かってるっつーの」
 よほどエリックの反応に驚いたのか、ウォレンは目を丸くしながら苦笑いする。エリックも流石に自分が過剰な反応を見せてしまった事に気がつき、一度深呼吸して気持ちを落ち着ける。
「それで、何処へ行くんですか? 今日から捜査は始めるんですよね」
「お前、レッドアロー峡谷って知ってるか?」
「確か、聖都から南下した所にある場所ですよね。政府の管理地域に指定されてて、一般人はまず立ち入らないとか」
「じゃあ、もうピンと来るだろ? 今回はそこだ」
「いや、別に来ませんよ。何があるんですか?」
「おいおい、まさか知らねーのかよ? レッドアロー峡谷って言や、自殺の名所じゃねえか。法的にも物理的にも、こんだけ行くのが困難な場所だっていうのに、自殺しに行く奴はとんでもなく労力を払ってまでわざわざそこで自殺するんだぜ? 絶対何かあるとしか思えないだろ」
「ああ、僕はそういうの興味なかったので」
 自殺の名所。そういった場所は、割と世界中何処にでもあるのだそうだ。自殺者はそこへわざわざ足を運んで、自ら命を絶つ。それがまるで、何か得体の知れないものが呼び寄せているように思えるので、何時しか名所などと呼ばれるようになるのだ。しかし、その仕組みは至って単純だ。その当時に有名になった小説などの自殺シーンにその場所が使われていて、それによるブームでわざわざ死に場所をそこへ選んでいるだけなのだ。そしてブームが去れば、今度は違う理由で志願者が集まる。自殺者にとって一番避けたいのは、自殺する事に失敗して苦しむ事。そのため、成功した前例が多い場所を探すのである。要するに自殺の名所というのは、何らかの理由があって、たまたまそうなっただけの場所にしか過ぎないのだ。
「でも、どうして今更そんな所を捜査するんですか? 名所だったら、もっと前から捜査してるでしょうに」
「まあ、それなんだが。実はな、外務相の血縁で最近そこで自殺してしまった奴がいるんだ。そしたら遺族はどうしても自殺した事に納得がいかなくて、何か悪霊の仕業じゃないかと騒いでるらしいんだ。で、俺達がそこに悪霊なんかいないという証明を突きつけてやるように言われたんだよ」
 突然の自殺を受け入れられない遺族に、受け入れざるを得ない証拠を突き付ける事で、立ち直るきっかけとするという事なのだろう。確かに身内に突然と自殺などされたら、そんな風に馬鹿馬鹿しい考えに走るほど取り乱す事も仕方がないと言える。そして、第三者がしてやれる唯一の優しさというのが、まさに死を受け入れさせる事なのだろう。
「とりあえず今日は、自殺に失敗した連中を聴取しに行くからな。アポ取る時に良い顔されなかったから、慎重にやるぞ」
「ウォレンさんはまず、自分の言動に慎重になって下さい。そもそも、そういう状態の人に聴取するのって、何か意味あるんですか?」
「やれる事は、とりあえずやるんだよ」
 さも当然とばかりに言い放つウォレンに、エリックは溜息でもついて見せようかと一瞬脳裏を過ぎった。そもそも、ウォレンのような人間を精神的に微妙な状態の人へ会わせて良いものなのか。そこまでする価値があるとは、到底思えない。ともかく、ウォレンの指示ならば従うしかない。エリックは、いつルーシーが来ても出られるように準備を始める。
「おっと、そうだ。最初に言うつもりが、すっかり忘れてた」
 ウォレンはエリックが用意したコーヒーを淹れながら、唐突に声をあげた。
「何ですか?」
「レッドアロー峡谷が自殺の名所で有名になる以前、そこを題材にした小説なんかの作品は、未だ一つたりとも見つかってないんだぜ」
「え? それはどういう事ですか?」
「つまりだ。誰がそこで最初に自殺したのか? 自殺の名所として有名にしたのは誰なのか? 誰もそれを知らない。そういう事だ」