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久し振りの紺碧の都は、昼だというのに酷く肌寒く感じた。クワストラとは真逆の気候のためだろう、しばらくは寒さに気をつけなければならないのかも知れない。
レイモンド商会の二人は、今回の御礼は日を改めてまた後日という事で、そのまま会社へ戻っていった。入札会の成果は既に速達で伝えているから、これから事業計画などに多忙な日々を過ごすのだろう。
アーリンと連れ立って大使館へ戻り、そのままフェルナン大使の邸宅へ向かう。今回の件は、必要最低限の事だけ口頭で報告し、詳細は後日書面でという事になった。アーリンの件は、レイモンド商会との兼ね合いもあるだろうから、あまり説明はしたくはない。そのため口頭では簡潔にせざるを得なかったのだが、フェルナン大使の素振りは何か察しているように思えた。もっとも、仮にそうだったとして、後はそちらの家庭の問題だろう。
報告も済ませアーリンと別れた後、俺はそのまますぐ隣の自宅宿舎へと帰った。相変わらず地方領主の屋敷のような宿舎は、その正門の佇まいからして威圧的で、未だに自分が此処に住んでいる事に違和感を覚えてならない。フェルナン大使の都合とは言え、やはりもっと手狭で身軽な家の方が住みやすいと思う。
「ただいま。今帰った」
大きな樫の木の固い扉から、屋敷の中へ入る。此処には俺の他に、ルイと家政婦のダリヤしか住んでいない。そのため、昼間だと言うのに屋敷の中はすっかり静まり返っていて、俺の声だけがやたら良く響いた。大使のように、表舞台で活躍するのが仕事の者なら、もっと賑やかなのだろう。この光景を前にする都度、そんな事を思う。
程なくして、奥からルイが姿を現した。声と物音だけで誰かすぐ分かるルイは、こちらの姿を見る前から既に表情は笑顔になっている。
「お帰りなさい、サイファーさん!」
そう言うや否や、突然ルイは駆け出して来た。間も無く安定期に入るとは言え、流石にこの行動に俺はぎょっとした。すぐさま持っていたカバンを床へ落とし、身構える。飛びつくような勢いで抱き付いて来るルイ。それをしっかりと受け止めるのだが、予想外にルイの勢いが伝わってきて、かなり無防備に駆け寄って来たのだと空恐ろしく思う。ともかく、無事受け止められて何よりだと、心底そう思った。
「少しは体を気遣ってくれないか。こんなはしゃいで、転んだりでもしたらどうするんだ」
「ごめんなさい。でも、ずっと離れていたから寂しくて」
一人で眠れない歳でもないのに、どうしてこうも甘えたがりなのか。同じ歳の離れた夫婦のフェルナン大使とルイーズは、もっと成熟した関係なのだが。
「お帰りなさいませ、旦那様」
遅れてダリヤが現れ、恭しく一礼する。こちらはルイと違って落ち着きと余裕のある素振りのため、留守を任せられる安心感を心底感じる。正直なところ、今のルイを一人で残して出張などとても考えられない。
「留守の間、何か変わった事は?」
「いいえ、特に何もございません。ルイーズ様が時折お見えになったくらいで」
「そうか、ありがとう」
妊娠してからのルイは、目に見えて落ち着きが無くなってきたように思う。嬉しいのは分かるし、それは俺も同じだ。だからこそ、もっと慎重になって欲しいのだが。ダリヤの話では、特に初産の場合はそういう状態になる事が誰でもあるそうだ。臨月に向かうに連れて徐々に収まるそうだが、逆に言えばそれまで目が離せないという事だろう。
「では、お荷物をお運びいたしましょう」
「いや、部屋で着替えて来るから自分で運ぶ。何か温かい物を用意してくれ」
「承知いたしました」
ルイにべったりと甘えられながら、二階の寝室へ向かう。着替えをルイに用意して貰い、その間にカバンの中身を一旦全て出して整理する。洗い物や保管するものなどの仕訳だ。その中で、俺はバラクーダで買った物を手に取る。
「ルイ、クワストラで買った土産があるぞ」
振り向いたルイは、俺が手にしたそれを興味深そうにしげしげと見つめた。
「これは何でしょうか?」
「クワストラ産の珍しい香木だ。心が落ち着くそうだ」
そう答えると、ルイは再び嬉しそうに抱き付いて来た。
「ありがとうございます、うれしいです」
心底喜ぶルイの背中を撫でながら、俺はいささか戸惑った。これは別に珍しくも何ともない香木で、一応のリラックス効果はあるそうだが、そもそも皮肉半分冗談半分のつもりで買ったのだ。まさか、こうも真に受けられるとは思ってもみなかった。
バラクーダで買った本当の土産は、上着の内ポケットにずっと大切にしまってきている。だが今のこの状況では、どうにも出し難い。これは、今夜にでもまた改めて渡す事にしよう。
宝石の事で、ふと今回の入札会の背景が頭を過ぎった。クワストラの貴金属に高価値が付けられるのは、その希少性からだ。希少性は、人を喜ばす基準の一つである。けれど、人を喜ばすのが目的ならば、何も希少性に拘る必要はない。なら希少性の高い貴金属は、一体何のために存在するのだろうか、そんな間の抜けた疑問が浮かんだ。
それはきっと、俺が経済的に困窮していないから浮かぶ、愚問なのかも知れない。使い方次第では、大勢の人間を経済的に満たす事も出来る。しかし、その過程で血が流れる事も珍しくない。
「さあ、早く着替えて、下で温かい物を飲みましょう。ダリヤさんのスープは、とても美味しくて体も温まるんですよ」
「そうだな。ずっと暑い所にいたから、アクアリアはどうも寒く感じる」
単に、希少性というものに振り回されているだけなのではないか。そんな結論を勝手に付け、俺は香木はサイドテーブルに置いて、もう一度ちゃんとルイを抱き締め直した。