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 バラクーダ市の港からアクアリアへ向けて出港したのは、それから三日後の事だった。無事に入札会を終えた事で気を良くしたサハン外務相が、参加者をファルス市の別宅へ招待し、歓待を受けたのがつい昨日のこと。それから今朝にファルス市を出て、夜中に出港するアクアリア便へ乗船したのだ。
 ようやく仕事終わりの目処がついたため、その晩俺は船内のバーでのんびりと酒を飲んでいた。飲み慣れたセディアランドの酒は無かったものの、クワストラ国で覚えた癖のある蒸留酒は意外と後を引くものがあり、それをただひたすらちびちびと舐めるように飲んだ。
 そんな調子でグラスを一つと半分も空けた頃、不意にレイモンド商会のニコライ本部長がバーを訪れた。今回の入札会で首尾良く幾つも案件を獲得した彼は、疲れ切って顔ではあったが表情は実に活き活きとしている。予定よりも遥かに多く落札出来た事で、多忙さによる疲れよりも達成感の方が大きいのだろう。
「こんばんは。今まで仕事ですか?」
 そう訊ねると、ニコライは何やら嬉しそうに頭を掻いた。
「いえ、まだもう少し片付けなくてはならない書類がありまして。一端小休止で、夜食を軽く取ろうと思った所です」
 そう答えニコライは、バーテンダーに簡単な食事を注文した。
「ミハイルさんはどうされましたか?」
「彼は仮眠中です。なんせ、昨日もあまり寝ていないそうで。これから忙しくなりますからね、あまり無理をさせる訳にもいきません」
 とは言え、仮眠しか取れない今の状況が既に無理のあるものではないか、そう俺は思った。まあ、その辺りは個人の素養や社風によって大きく変わるものだろう。
「ところで、少々訊き難いのですが。アーリン様は、あれからどのような御様子でしょうか」
「何か思い詰めてはいるようですが、まあ放っておくしかないでしょう。若い内は、理不尽な事ほど咀嚼に時間がかかるものです」
「我々も、申し訳ないとは思いますが、何分これは仕事ですので……」
「いえ、それはお気になさらず。そもそも私は、あの朝食会の事も反対でしたから。彼女が自ら余計な事に首を突っ込んだだけに過ぎません。大使には適当に言い繕っておきますよ。まあ、良い社会勉強だったと笑うだけでしょうが」
 流石に、レイモンド商会が懇意にするフェルナン大使の娘の意に反した事には、彼らも気が咎めるのだろう。けれど、これが彼らの本業であり、むしろそこに自分だけの正義を振りかざして水を差そうとした事が間違っているのだ。そもそも我々は、普段懇意にして頂いている見返りとして、彼らの仕事を間接的に支援する事が目的だったのだ。アーリンの行為は、そこからあまりにも逸脱している。
 とは言え、アーリンに対し全く同情していない訳ではない。理屈的には賢くない行動だったが、感情的にはむしろ共感すらしている。だから本音では、無碍にしたレイモンド商会に怒りが全くない訳ではない。
 レイモンド商会とて、利益を上げなければ、在籍する多数の社員とその家族を養えない。事業とは綺麗ごとだけではなく、時にはもっと生活に密接する生々しい現実に直結する事もある。怒りはあってもそれを露わにしないのは、俺もその道理が分からないほど幼稚ではないからだ。
 軽食を済ませたニコライは、程なく仕事へ戻っていった。世界中を飛び回る仕事をする人間は、ああも日頃から仕事に熱中出来るものなのかと、その姿勢には感心すら覚える。もっともそう言う自分自身、フェルナン大使に四六時中付き合える事を、周囲からは呆れ混じりに感心されてはいるが。
 それから更にグラスを二杯空けると、眠気が来るどころかかえって目が冴えて来た。明日も航行ばかりで、特にこれと言ってする事は無い。なら、多少飲み過ぎても構わないだろう。そう判断し、俺は更に酒を注文する。
 酔いのせいでぼんやりとした視線を宙に向けつつ、俺は黙々とグラスを傾ける。ふと、自宅で帰りを待つルイの事が脳裏を過ぎった。家で飲む事もあるが、こうしていると決まってルイは甘えしなだれかかってくる。酒が飲めない事もあるが、何より俺が無口になるのが嫌なのだそうだ。そんな自覚は無いのだが、酔うと口数が減るのだろう。思えば、随分長いこと酒を本格的に酔うほど飲んでいなかった気がする。無意識の内に、緊張感が薄らぐ事を嫌っているのだろうか。
 ぼんやりとしたまま、やがてグラスをまた空けてしまい、そして再び次の酒を注文する。グラスを手にし、手のひらに伝わる冷たさが鈍くなってきたかと疑った、そんな時だった。不意に隣の席に何者かが断りも無く着いた。
 いや、本人は特に不意を突いた訳ではないのかも知れない。大分飲んだせいか、目は冴えているものの周囲の気配にやや無頓着になってしまっているようである。
「お酒を飲みに行くなら、誘って下さいよ」
 そう言って微笑んだ隣の人物は、アーリンだった。
「もう気分はいいのか?」
「まあ、あまり落ち込んでいても仕方ありませんから」
 普段とはさほど変わらない様子で、アーリンはバーテンダーにカクテルを注文する。その元気は空元気ではないかと危惧するが、それでも出せる内は大丈夫なのだろう。俺はあまり障らないようにする事にした。
 注文したグラスが出されると、アーリンは思っていたより遠慮がちにそれを口にした。先ほどから無遠慮に飲んでいる俺の飲み方とは、随分と対照的である。これではまるで、俺の方が自棄酒を飲んでいるかのようだ。
「ところで、サイファーさん。バラクーダで乗船前に、随分長く外して何処かへ行っていたようですけど。もしかして、奥さんにお土産を買っていたんですか?」
 唐突にそんな事を訊ねられ、俺は思わず咽せそうになった。誰にも見付からないようにしていたつもりだったのだが。こちらの予想より、アーリンは目ざとい。
「そうだ。何かおかしいか?」
「いいえ、別に。ただ、そんな隠れて行かなくてもいいのに、と思っただけですよ」
「一応、公費で来ている身だ。旅行気分だと見られては拙いだろう。税金は私的にではなく、国民に有用に使うべきだ、そう君は前にも言っていた筈だ。俺は、それに配慮しただけだ」
「私は知ってますよ? 何だかんだでサイファーさんは、ルイさんと仲良しだって事」
「夫婦仲が良い事は、良いことだろう」
 子供が知った口を利くなとばかりに突き放してやりたかったが、それでは自分の方が子供じみているように思え、俺はそれ以上は反論はしなかった。
 今回の件を引き摺って欲しくはなかったものの、もう少ししおらしさを見せても良かったのではないかとも思った。立ち直りの早さは彼女の長所かも知れないが、またいつ同じような状況に遭遇するかと思うと、とても気が気ではない。
 フェルナン大使は、ずっとそんな心境に置かれていたのだろう。それを考えると、自分がいずれ人の親になることに、一抹の不安を覚えずにはいられなかった。