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 入札会のボイコット。その言葉の衝撃には、各企業の代表者のみならず、場に居合わせた全ての人間が息を飲んだ。今回のクワストラ政府主導の新規開発事業は、今後の国の命運を賭けていると言っても過言ではないものだ。もしも各有力企業がボイコットすれば会場は蒼然となるだろうし、手を引く理由を求めて他の企業も自然と入札には慎重になる。事業の全てが入札されなければ、開発事業自体が頓挫してしまうだろう。成人したばかりの小娘の戯れ言と一笑できても、これまでの事実関係や筋道立った主張には、それなりの妥当性や説得力がある。決して不可能でも世迷い言でもないのだ。
「突然の事でしょうから、皆さんが困惑するのも無理からぬ事です。ただはっきりしておきたいのは、私が決して入札会そのものを潰してしまいたいと思っている訳ではない、という事です。私は皆さんに、予防線を張る事を勧めているだけです。これまでの歴史を紐解いてみると、こういった土地や水源の所有権争いは世界各地で起こっていますが、それらを蔑ろにした場合は一つの例外も無く血が流れます。これは宗教問題よりも遥かに大きいのです。クワストラ政府は今、正に自国で起こったそれを蔑ろにしています。今後クワストラ国で事業を展開する皆さんにとって、これは由々しき問題ではないのでしょうか?」
 企業にとって、人命にかかわるトラブルは最も避けたい一つである。ラサ達一族の土地所有権の問題は、既に昨夜の夜会で人命にかかわるレベルである事が明白になっている。対応を間違えば、今度は自分の企業で同じ事態が起こる。おそらく、今の彼らはそんな事を考えているだろう。
 けれど、俺はどうしてもさほど申告な空気を感じなかった。開会直前になって突如湧いて出た問題ではあるけれど、それは彼らの根本を揺るがす程ではなかったように思うのだ。
「サイファーさん、これは……」
 ミハイルが声を潜めて俺に訊ねて来る。
 何故レイモンド商会に事前に上げてくれなかったのか。そんな言い分だろうが、フェルナン大使とレイモンド商会の関係を考えれば当然である。
「すみません、今日は聴取の内容を伝えるだけとしか知らなかったのです。まさか、あんな提案まで始めるとは……」
 実際のところ、アーリンはこの件に関して公平性を求めている節があったから、何かしら仕掛けて来るとは薄々予感はしていた。けれど、まさかこうも露骨なクワストラ政府への敵対とも取られかねない行動へ出るとは思いも寄らなかった。大胆不敵と言えば聞こえは良いが、俺には若さ故の過ちにしか見えない。
「状況だけでも、昨夜の内にお伝えしておくべきでした」
「いえ、大体予想はついていましたから。話の内容に、サイファーさんの認識と矛盾や相違点が無ければ、問題ありませんよ」
 するとミハイルは、俺が思っていたよりも遥かに冷静に、そんな事を言い放った。
「え、どういう事でしょうか?」
「昨夜の聴取の事は聞いていましたし、その内容について間違いが無い事をサイファーさんが確認して戴けたなら、それで良いのですよ」
「何故そんな……いえ、聴取の事を一体誰から訊いたのです?」
「ああ、御存知ではなかったのですね。デリングさんという方ですよ。ホルン商会の。昨夜は共に行動されたそうではありませんか」
 意外な名前を口にされ、俺は困惑してしまった。確かに昨夜デリングは一方的に同行したが、あれはサハン外務相に顔を売るためではなかったのか。そもそも、会社の規模が違うとは言え、レイモンド商会とホルン商会は競合関係にあると思っていたが。
「まさかホルン商会と、付き合いがあったのですか?」
「どこも同じですよ。利益のため、時には共闘する事もあります」
 利益追及のためには、そういう状況はあるかも知れない。しかし、この場合は何に対して共闘するという意味なのか。まさか、企業側は初めからクワストラ政府に対して何らかの措置を取るつもりだったのだろうか?
「私は、今この場で回答を求めるものではありません。ただ、今お話した件を十分に検討し、適切な御判断をされて下さい。以上になります」
 何らかの手応えが感じられたのか、アーリンはそこで話を止めて一礼し、静かに席へ戻った。そして籠からオレンジを一つ取り、楚々とした仕草でかじる。一同は腹を探り合うように視線をあちこちへ巡らせるものの、誰も具体的な言葉として口にする事はなかった。
 彼らの肝を冷やせる程度には、釘は刺せたか。そうは思いつつ、やはりアーリンの考えは甘いという結論に変わりはなかった。一体どれだけの人間が、アーリンの主張に同調してくれるだろうか。彼らはまだしも、今この場に居ない他の企業達はどう思うのか。アーリンの主張はどう贔屓目に見ても、入札会を軽く掻き回す程度にしか影響は無い。どれだけ波風が起こせるのかは、取る側の心境次第だ。
「サイファーさん、私はこの辺で失礼いたします」
 まだ場の様子が落ち着かない中、おもむろにミハイルが席を立った。
「これから一仕事やらなくてはなりませんので」
「仕事ですか? もう入札会は間もなくだというのに。アーリンの件で、ですか?」
「そうですね、それもあります。けれど、これは想定内の事なのですよ。では」
 そう言い残し、ミハイルは足早に会場を後にした。
 想定内。その言葉が、やけに気に掛かった。少なくともレイモンド商会は、デリングのリークによりこの事態を想定していたらしい。だが、それに対して次はどのような手を打とうというのか。普通に考えれば、クワストラ政府なのだが。しかし、この土壇場で何処まで交渉の余地があるというのだろう。