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「おい、やめろ!」
一斉に悲鳴が上がり、誰何の怒声が会場中を駆け巡る。けれど、謎の乱入者は一切を意に介さず、何度も手にしたそれを執拗に振り下ろし続ける。まるで水しぶきのように真っ赤な血が幾度と舞い上がり、壇上は瞬く間に血の海と化す。肉を抉る独特の音が、離れた此処まで聞こえて来そうだった。
「くそっ!」
あまりの事態に呆然と立ち尽くしていた俺とは違い、サーブラウは即座に状況を判断して素早く壇上へ向かって駆けていく。元守護庁警備部だけあって、その辺りの判断力は常人と一線を画している。
「あ……あ……」
傍らのアーリンは、この出来事を前に恐怖で顔をひきつらせている。俺は黙って椅子に座らせ、何も見なくて済むように、体を屈ませた。そして他に何か危険は無いかと周囲を見回すものの、正直なところ動転してしまっている部分が多くて、とても冷静に状況を見てはいられなかった。
「何をしている!」
いち早く乱入者に飛びついたのは、壇上側の出入り口から現れたクワストラ兵だった。クワストラ兵はすぐさま曲刀を抜き放つと、壇上の乱入者へ斬りかかっていく。だが、乱入者はその斬撃をいとも容易くかわすと、身を翻した拍子にクワストラ兵を壇上から蹴り落とした。
続けて、落札者は血で真っ赤に染まった短剣を頭上に掲げ、険しい表情でこの会場中をじろりと見回わすと、まるで勝ち鬨を挙げるかのように高らかと叫んだ。
「裏切り者には、死を!」
その言葉の意味など、到底誰も理解など出来る筈もない。ただ、恐慌に拍車がかかるだけであり、どよめきよりもまだ悲鳴の方が多く飛び交った。
乱入者はそれで目的は終えたのか、すぐに転身し壇上から飛び降りると、会場の出入り口へ向かって駆け出した。しかし、
「待て! 此処は通さん!」
その行く手を、サーブラウが阻んだ。予め逃走路を予測していたのだろう、乱入者には予想外の事だったらしく、慌てて足を止めるという、ようやく感情らしい仕草を覗かせる。
俺はその時、サーブラウの身を案じた。相手は短剣を持っているが、正規の手段で乗船したサーブラウは、武器らしい武器など持ち合わせていないからだ。
乱入者は、サーブラウを斬りつけて易々と突破するのではないか。そう案じた直後、
「不審者は此処か!」
丁度反対側の出入り口が乱暴に開かれる。そこから、数名のクワストラ兵が押し寄せて来た。いずれも鎧と曲刀で武装している、屈強な兵士達だ。
これで挟み撃ち、逃れられない。
そう確信するのも束の間、この乱入者は即座に驚くべき行動へ出た。
「何ッ!?」
突如、乱入者は身を翻すと、あろう事か武装したクワストラ兵の方へと駆け出していった。その後をサーブラウはすぐさま追う。数の多い方へ自ら飛び込んでくれれば、それはそれで好都合なのだ。
しかし、クワストラ兵に取り押さえられるかと思われた乱入者は、駆けながら身を低く構えると、そのままクワストラ兵の集団へ真っ向から突撃する。そして、あろう事か一回りは体格の違う彼らを、まるで枯れ葉のように弾き飛ばしてしまった。
「逃がすな!」
クワストラ兵を難なく蹴散らし、会場から飛び出して行く乱入者。その後をサーブラウは、蹴散らされ唖然としているクワストラ兵達を踏み越えて追っていった。だがその直後、大きな水柱を連想させる水の音が会場の中にまで聞こえてきた。会場の出入り口は、両側ともすぐ船の端の通路に繋がっている。丁度胸ぐらいの高さのある柵を乗り越えれば、その先は夜の湖なのだ。
程なくして、肩を落としたサーブラウが会場へ戻ってくる。落胆と悔しさの入り混じった表情に、あの乱入者にまんまと逃げ果された事を理解した。
「逃げられました。そこから湖へ飛び込まれました」
それだけぽつりと答えたサーブラウは、口惜しげに奥歯を噛み締めた。元とは言え、警備部出身の自分の前で人が殺され、実行犯にまんまと逃げ果された事は、この上ない屈辱に感じたのだろう。
「後は我々が……」
クワストラ兵達が消沈した声色で話し、ばたばたと慌ただしく会場から出て行く。彼らもまた、心中は穏やかでは無い筈である。サーブラウとは違い、警備責任があるにも関わらず、犯人を前にしながら正面突破された上で逃してしまったのだから。
「アーリン、大丈夫か?」
しんと静まり返り、慌ただしい足音だけが響く会場。俺は少しでも気を取り直させようと、出来るだけ普段通りの口調でアーリンへ話し掛けた。
「は、はい。何とか……」
気丈にも笑顔を浮かべ答えるアーリンだが、突然の惨状に強くショックを受けている事は明白だった。顔色は未だ青白く、唇は細かに震え、声にもまるで力が籠もっていない。
「皆様、御無事でしょうか! お怪我をされた方はいらっしゃいませんか!?」
やがて、クワストラの兵士達や政務官達が血相を変えて場内へ飛び込んでくる。参加者達はいずれも不安と安堵の入り混じった憔悴の表情で、ある者は力無く椅子に座り、またある者は自らを誤魔化そうと兵士達に激昂して掴み掛かる。あの乱入者の連れ合いは居なさそうではあるが、事態の収拾にはまだ時間を要するようである。
視線を壇上へと移す。短剣で滅多刺しにされた男は、真っ赤な血溜まりに突っ伏したままぴくりとも動かなくなっている。その周囲を、厳しい表情のクワストラの兵士と政務官が囲んでいる。万全の警備体勢だった筈が、何故こんな事になってしまったのか。今後の入札会は一体どうなってしまうのか。いずれも、そんな憔悴が見え隠れする。
この暗殺劇は、やはり例の排斥派の仕業なのだろうか。あの司会のクワストラ人は、見せしめに殺されたのだろうか。
ただの勘ではあるが、これが見たままの暗殺劇では無いように、どうしても俺には思えてならなかった。