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 アーリン達が談笑に花を咲かす一方で、こういった華やかな場所には未だに慣れず、ほとほと疲れてしまった俺は一人輪を抜け、近くの壁際の椅子に座り込んだ。会場をざっと見渡すと、実に様々な国から人が集まってきたらしく、多種多様の人種が見られた。ほとんどが企業や経済人、そして僅かに支援者として外交官などの名士が混じる。彼らは会話を通して、様々な情報交換や協定を結んでいる。経済界という、俺にしてみれば化け物の巣窟の住人達である、到底相容れる筈もなければ、進んで関わろうという気持ちにもなれない。こうして、壁の花を気取って眺めているだけで充分である。
「失礼、お隣宜しいでしょうか?」
 温くなったグラスを傾けていると、不意に隣から声を掛けられた。振り向くとそこに立っていたのは、礼服を来た一人の青年の姿があった。
「ええ、構いませんが」
「申し遅れました。私、ヤーディアー閣下の公設秘書官を務めます、サーブラウと申します。サイファー殿の事は、よくよく存じております。この機会に、先輩秘書官より何か御教授戴ければと思いまして」
「私は、さほど秘書官としての仕事はしていませんよ。もっぱら雑用雑務ばかりです」
 サーブラウと名乗る青年は、如何にも着任したばかりの新人外交官に見えた。ヤーディアー大使も勉強の意味で随行させたのだろうが、この硬さは会場の雰囲気に馴染めないものがある。本人が積極的に馴染もうと、努力している事は伝わるのだが。
「ところで、昨日の事なのですが。サイファー殿はお聞きになりましたか?」
「昨日の事?」
「例の、外国人排斥派団体の件です。何でも、ファルス号がドッグへ着船した際に、工作員が一人紛れ込んでいたらしいですよ」
 俺は、昨日のファルス号を見物に来た時の出来事を思い出した。クワストラ国民と思われる男が、船大工の集団に追い掛けられていた。もしかして、あれがその事なのだろうか。
「いえ、初耳です。その工作員は、何をしていたのですか?」
「ファルス号の船体に、赤のペンキで落書きを施したそうです」
「落書き、ですか。どんな内容なのですか?」
「それが、船大工達は誰も読めなかったそうです。元々クワストラには、今も少数民族が多数点在していて、独自の文化や言語体系を脈々と受け継いでいる所も珍しくありません。そういう古いローカルな言葉だったのだと思います」
 確かに、あの追われていた男は、クワストラ国民にしても大分古めかしい異文化を感じる服装をしていた。船体の落書きは、彼らの古い言語なのだろう。
「流石に赤のペンキは目立ちますからね。すぐに落とそうとはしたのですが、船体の至る所にびっしりと書かれていたらしく、落とすのは諦めて要所要所を目立たないように塗り直したそうです。ざっと見ただけで分からなければ、それで充分ですからね。なんせ、乗船さえしてしまえば、誰も船体なんて見ませんし見えませんから」
「とは言っても、そんな急増の塗装では落ちてしまうのでは? 少なくとも、明日の入札会と湖で一泊する訳です。塗料も渇き切っていないでしょうし」
「ええ。ですから下船は夕方以降になりますし、あまり船体を照明で照らさないようにすると思いますよ」
 とにかく乗船が完了するまでの間、気付かれさえしなければ良いという事なのだろう。船大工達にしてみれば、とんだ災難である。けれど、あの男は一体何と船体に書いたのか、それが気になった。あの外国人を敵視する彼の表情の裏側は、これからクワストラの開発に参入する以上は知っておくべきではないかと思うのだ。
「しかし、工作員がドッグにまで侵入して来たという事は、この船内にも侵入されているのではないでしょうか?」
「可能性はありますが、まず大丈夫だと思いますよ。そのため、あれだけ厳重な乗船前のチェックをしたんですから。それに、出港した今となっては、外から侵入する事は出来ませんし」
「そうかも知れませんが……。確証は持てますか?」
 すると、サーブラウは自信たっぷりに答えた。
「ええ、勿論。実は私、元々は守護庁警備部の人間だったので。ヤーディアー閣下とはちょっとした縁があって、外務省へ転籍し今に至る訳でして」
 守護庁の警備部と言えば、重役や貴人などの重要人物を専門に警護する、憲兵の中でもエリートが所属する花形の部署である。応募数は毎年何万にも上るが、採用される者は本当にひとつまみで、いずれも非常に能力の高い職員ばかりだと伝え聞く。
「なるほど、では既に船内のチェックはされている訳ですね」
「通行が許可されている所は全て。もっとも、許可されていない所はクワストラの兵士が何人も居る訳ですから、別段気にする必要はありませんがね」
 警備の専門家と、クワストラの兵士達。これが揃っていれば、まず問題は起こり得ないだろう。万が一の不測の事態があっても、素人でしかない過激派の連中では何も出来ないに違いない。
「それは心強い限りです。私は警護など門外漢ですから」
「ですが、例のラングリスの一件、警護の任を務めたのはサイファー殿ではありませんか。聞いていますよ。あの女性だけではなくフェルナン大使をも、拉致犯との壮絶な戦いの末に見事救い出したとか」
「い、いえ、それは大分誇張されていますよ。そんな大袈裟な話ではありません」
 俺は慌てて話の内容を否定する。そして胸中では、またか、とうんざりした溜め息をついた。
 ラングリスでの件を持ち出されるのは今に始まった事ではないが、話の内容がいささか事実と懸け離れている事が増えて来ている。本来、俺はあの件をみだりに話したり、広めたりしたくはないのだが、こうも誤った情報が飛び交っていては訂正せざるを得なく、結果的に事の詳細を話さなくてはいけなくなる。
 アーリンは、この話を俺の鉄板の持ちネタと評し、これだけで初対面の人間とも楽に話が出来ると言っていた。けれど、外交畑の出身ではない俺にとっては、未だ悩みの種の一つでしかない。