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 顔を上げればすぐに目に付くファルス号のマストと、最近設置されたであろう真新しい看板を頼りに、俺達はどうにか港へ辿り着いた。港は既に小さな人集りが出来ており、停泊場と一般解放エリアを区切る鉄柵越しに、停泊中のファルス号の勇姿を一目見ようと賑わっていた。
「少し遅れたな。かなりの人集りだ」
「大丈夫です、まだ前の方へ行けますよ」
 そう意気込んだアーリンは、人の間を掻き分けてどんどん前へと進んでいく。俺は姿を見失わぬよう、その後にぴったりと付いて行った。やがて最前列まで来ると、アーリンは鉄柵に身を乗り出し、遠くに映るファルス号の姿をまじまじと見詰めた。
「流石、世界一の豪華客船ですね! こんな大きな船なんて、初めて見ました!」
 鉄柵をがちゃがちゃと揺らし、まるで子供のようなはしゃぎぶりを見せるアーリン。いい歳なのだからはしたない真似は止めろ、と窘めるものの、ここの人集りの大半以上は外国人観光客で、アーリンのようにはしゃぐ者もそう珍しくはなく、かえって俺の方が不粋のように映った。
 すぐに飽きるだろうと諦め、俺もまたファルス号と港について、観光客のように見物を始める。
 ファルスの港は普通の港町とは違い、潮の香りが全くない。それは当然で、ファルスに隣接する巨大な湖畔のために建設されたものだからだ。ファルス号はそもそも外海を航海する目的で建造された船ではない。波の少ない湖だけで運用されてきたため船体の痛みも少なく、また外洋のような高波に揺られる事はないから船自体もさほど揺れたりはしないだろう。逆に言えば、それだけ限定的な条件だからこそ、多少無理な設計でも十分運用に耐えられるのだ。
「凄いですね、本当に。明日はあれに乗るんですよ」
「あまりそういう事を大声で話すな。大使の代理がそれでは、他国にも聞き覚えが悪い」
「大丈夫ですよ。どうせ、みんな船に夢中ですから。それに、この時期にこんな町へ足を運ぶ外国人なんて、みんな私達と同じ理由ですよ」
 確かにそれはアーリンの言う通りではある。けれど、今この場に居るのが全て外国人とは限らない。それに、クワストラ政府、もしくは過激派と通じている人間がいない保証もないのだ。彼らの勘に障るような事をするつもりはないが、世の中には逆恨みや誤解というものがある。歳を食っている分、俺の方がそういった発想が出来る。アーリンは、明晰でもまだ子供なのだ。
 そんな調子で、アーリンはしばらくの間、船にかじりついていた。俺もまた、確かに世界最大の豪華客船というものを実際に目の当たりにし、その壮大さに圧倒されていた。けれど、そんな感動も早々長く続く事もなく、やがてはまだ乗れもしない船体を眺め続ける事に飽き始めて来た。
「もういいだろう、そろそろ引き上げよう」
「え、まだ来たばかりじゃないですか」
「いい加減、俺は疲れた。それに、ただでさえ暑いのに、この人の熱気の中に居るのは堪らない」
「もう、仕方ありませんね」
 そう口を尖らせつつ、アーリンは鉄柵を離れた。これ幸いにと、すぐさま俺はアーリンを連れて、この人集りから抜け出した。
「あ、汚れてる。あの鉄柵、ちょっと錆び付いてましたね」
 そう言ってアーリンは、両の手のひらを広げて見せた。アーリンは、日射し避けのために薄手の手袋をしている。若草色のその生地には、見事に不粋な赤茶けた色が広がっていた。
「暑さで鉄柵が熱いだろうから、丁度良いと思ってたんですけど。これは失敗でした」
「せめて、ハンカチの一つも挟むんだったな」
「別にいいです。替えはまだありますから」
 アーリンは手袋を取って丸め、ポケットの中へ押し込む。あまり気品のある仕草とは呼べないものだ。
「あっちの方は、ドッグになっているようですね。見学はさせて貰えないでしょうか」
「平時ならともかく、今は無理なんじゃないか? おそらく、明日に向けて今からメンテナンスで多忙だろう」
「入札会が終わった後なら大丈夫でしょうか」
「さあな、訊いてみなければ分からない。それにしても、随分とこだわるな」
「サイファーさんが無関心過ぎるんですよ。外交官たる者、常日頃から様々な事柄に目を向けておくべきなんです」
「そうか。悪いが、俺は監察官上がりだからな。目に付くのは、不正や汚職の兆しばかりだ」
「それはそれで良いことですよ。相手を説得するカードが増えますからね」
「人聞きが悪いな。さて、向こうの店にでも入ろう。いい加減、喉が渇いた」
 この日射しの下で、論戦を繰り広げるような真似はしたくはない。俺は早めに話を切り上げ、港から出ようとした。
「あれ? サイファーさん、ちょっと」
 この場を去ろうとしていた俺を、アーリンは袖を引っ張って制止する。
「何だ?」
「あれを見て下さい。何か変ですよ」
 そう言って指差す先を、強い日射しから庇うため、目を細めながら見やる。そこはファルス号がまさに入ろうとしているドッグで、その付近から男が一人、凄まじい勢いで走り出て来たのが見えた。服装はクワストラ風と見受けられるが、かなり粗末なものに見える。男の風体は、先程練り歩いたファルスの裏手に居そうな、職の無い貧民のそれに似ている。あまりこの場の雰囲気とは馴染んでいない印象だ。
「あ、また来た!」
 間もなく、ドッグからは更に数名の男達が姿を現した。今度はいずれも逞しい体躯で、船大工らしい服装をしている。どうやら彼らは、最初に走って来た男を追いかけているようだ。
「何でしょう? ちょっと不穏な様子ですけど」
「ドッグに忍び込んで、何か盗みでも働いたのか」
「ドッグにですか? 食べる物もお金も無さそうですけど……あっ、捕まった!」
 そう話している内に、追い掛けていた船大工の一人が男に飛び付き、そのまま砂浜へ押し倒した。それを切っ掛けに、船大工達は次々と飛びかかると、倒れている男をやたら滅多らに踏みつけ始めた。元々の体躯の差、そして多勢に無勢である事もあり、男はそのまま一本に踏みつけられた。抵抗するにも、あまりの相手の数に手も足も出ない状況である。
「拙いな……。仕方ない、止めて来るか」