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 翌週、クワストラ出発当日。予め連絡があった通り、俺は大使館ではなく大使の邸宅へ向かった。馴染みの執事の案内で通されたのは、大使の寝室。そこでは、ベッドの上で不貞腐れた表情で横たわる大使と、その傍らにテーブルを動かして席を作り、粛々と業務をこなすクレイグの姿があった。
「おはようございます、サイファーさん」
「おはようございます。随分と早いですね」
「実は、私の宿舎もここから割と近いんですよ。まあ、単身者向けの小さな所ですけれど」
 確か、裏手側の方に集合住宅の建物が幾つか建っていた。おそらくあの辺りが単身者向けなのだろう。流石に間取りは一軒家よりも狭いだろうが、俺としてはそちらの方が本来は性に合う。こればかりは済んだ事だから仕方がないが。
「こうなるって分かってたら、もっと遠くに配置するんだった」
 そう恨めしげに、大使は書類を眺めながらわざとらしくぼやく。先週と比べて顔の包帯が取れた分、怪我が快方へ向かっている事が見て取れる。しかし、未だベッドの端に吊った足が痛ましい。
「結局仕事量は変わりませんよ。あとこちらもお願いします」
「それで全部かい?」
「午前中の分は」
 クレイグのその言葉に、大使は大きな溜め息を漏らした。おそらくベッドの隅辺りを苛立ち紛れに叩きたい心境だろうが、肝心のその腕が打撲や捻挫で無茶が出来ないようになっている。
「本当にツイてない。怪我さえしていなけらば、クワストラ国に逃げ込めたのに」
「ところで、こちらに私をお呼びしたのは、何用かあったのでしょうか?」
「ああ、今回の事だけどさ。レイモンド商会の方から予め顔合わせをしておきたいと言われてね。もう間もなく此処へやってくるんだよ」
 レイモンド商会とは、セディアランドで随一の工業グループ会社のレイモンドが、アクアリアに置いた北方の拠点となる会社である。北方では本業である工業関係の事業ではなく、様々な分野に手広く展開している。大使との繋がりも深く、大使が様々な便宜を図る見返りに、何らかの支援を受けたりもする。双方の関係を間近で見ている身としては、癒着寸前の灰色な関係という認識だ。
「おはようございます」
 そう爽やかな挨拶と共に現れたのは、すっかり身仕度を整えたアーリンだった。初めての外交だからとでも表しようか、全身から英気が溢れ出ているように感じる。
「では、お父様。クワストラ国に行って参ります」
「ああ、待ちなさい。今、レイモンド商会の人が来るから」
「港で合流するのではなかったのですか?」
「いや、違うよ。僕のお見舞いも兼ねて来るんだから」
「まさか、ワインなんかを持ってくるように言っていませんよね?」
「僕は、頼んでいないよ」
「僕からは、でしょう?」
 そんな二人の微笑ましいやり取りを眺めつつ、ひとまず大使の具合はきちんと回復傾向にある事を実感する。レセプションパーティーとなれば、各国の様々な組織や企業の人間と、否応なく交流する事になる。それは大使秘書官という立場の俺も例外ではないだろうし、大使が欠席した理由や現状の様子もきちんと話せるように準備はしておかなければならない。
 それからしばらく経った後、執事がレイモンド商会の社員をこの部屋へ案内して来た。レイモンド商会からの者は二人、一人は如何にも重役らしい仕立ての良いスーツに身を包んだ壮年の男、もう一人はまだ年こそ若いが落ち着きのあるやり手そうな男だった。
「やあ、おはよう。突然ですまないね」
「いえいえ、とんでもありません。それにしても驚きましたよ。閣下が事故に遭われたと聞いて。ともかく、お元気そうで何よりです」
 壮年の男は大使と親しげに言葉を交わす。彼は大使とは特に懇意の人間で、名前はニコライ、レイモンド商会で営業部隊を束ねる立場の人間だ。彼の営業戦略に、大使は度々口利きなどをしている。外交官は自分を権限を、私的な利益誘導に荷担してはならない規則がある。あくまでセディアランドの国利のため、という建て前になってはいるが、実際のところは側近達で厳格に監査していなければ危うい内容だ。
「それと、こちらでは初めてでしたね。この男は私の部下で、今回同行させるつもりです」
「初めまして。ミハイルと申します。こちらは、ささやかながらお見舞いの品です。どうぞ」
 ミハイルと名乗ったその男は、携えていた妙に包装過剰な紙袋を大使へと差し出す。見るからに重量のあるそれはとても病人の見舞いとは思えなかったが、大使はやけににこやかな様子でそれへ手を伸ばした。しかし、
「はい、そこまで」
 突如その紙袋を、横からアーリンが掠め取ってしまった。そしてすぐさま、断りも入れずに封を切って中身の確認を始める。
「ちょ、ちょっと? アーリン、それはだね」
「すぐ終わりますよ。ああ、はいはい。やっぱりワインじゃないですか。これは没収します」
 アーリンは手早く袋を丸め、そのまま部屋から出て行った。その姿を大使は後ろめたそうに眺め見送る。が、アーリンが退室した事を確認するや否や、一転し悠然とした表情でニコライへ話し掛ける。
「ほら、僕の言った通りでしょ」
「まだお若いのですから、詰めの甘さは仕方がないものでしょうな」
 そう含み笑い、ニコライは自分のカバンから新たにワインボトルを取り出した。こちらは先ほどの紙袋の中身とは違って、ラベルが特徴的で如何にも高級そうな雰囲気があった。どうやら最初のワインは、初めからアーリンを出し抜くつもりで用意した囮だったようである。
「そういう事だからさ。悪いけど、サイファー君。どうかアーリンの事は厳重に監視を頼むよ。ご覧の通り、どんなに背伸びしても所詮は子供、大人の知恵には勝てないんだよ。最悪、途中で無理やり帰国させてもいいから」
 何時になく真剣に語る大使。幾ら有能だが変人だと評判の大使と言えど、やはり年頃の娘を持つ父親に変わりは無いらしい。クワストラ国へ行かせたくないのは、専ら悪い虫が付く事を恐れての事が理由のようだ。