BACK

「何これ? どうしたの?」
 ニーナが訝しさと呆れの混じった顔で、ソファーにもたれたままの俺を見下ろしている。体に力が入らずへらへらと笑う症状は相変わらずで、むしろ頭の方がぼんやりとして来た。自分でも、自分の体に何が起こっているのか分からない。だが、不思議と高揚感と幸福感が込み上げて来て、この症状に対する深刻さを把握しきれなかった。
「その、良く分からないんです。お茶を飲んだ後で、急にこうなってしまって……」
「お茶、ね。飲んだのは、レナートだけ?」
「は、はい。そうです。これです」
 一歩引いた所でイリーナが不安げな表示を浮かべている。更にその後ろにいるシードルは、いささか興味深げに俺の方を覗いている。こうしてへらへらしている俺が、よほど物珍しく見えるのだろう。
「となると、そのお茶が原因なのかしらね。初めからここにあったって言うし」
 ニーナは、イリーナから受け取った小さな紙袋の中を覗き込み、中の様子を窺う。しかし、見た目は何の変哲もない茶葉なのだろう、自分には良く分からんとばかりに眉間に皺を寄せている。
「ところで、アーリャは? こういう時こそ、あいつの出番なのに」
「先程起こしには行ったんですが……。ぐっすりと眠ってて、全然起きようとしなくて」
「ああ、昨夜ははしゃぎ過ぎて疲れたのかしらね。まったく、本当に体力が無いんだから」
 アーリャは基本的に一般人よりも体力がない。普段はそれを知識と魔法でカバーしているのだが、ただの遊びであればそれはどうしようもない。とりあえず放っておいて、回復するのを待つしかないだろう。
「レナート、私、分かる?」
「あはははは。分かるよ、うん、良く分かる」
 自分の意思かどうかも分からない、酷く浮ついた言葉が口から飛び出す。ニーナは再び呆れの表情で溜め息をついた。
「駄目ね。完全に出来上がっちゃってるわ」
「何がマズいのかな? こっちは気分がいいんだ」
「いい? これ、傍目からは完全に麻薬をやってる奴の症状よ」
「本当にかい? 俺、そういうのはやらない主義なんだぜ」
「多分、あのお茶がそうなんでしょ。まったく、これもサービスの一環なのかしらね」
 ああ、なるほど。辛うじて心の隅に残っている理性が、今のこの状況を分析し納得する。台所にあったというそのお茶は、やはり非合法なそれを楽しむための、言わば備品だ。当然表に出せば通報されるような代物だが、そもそもこの手の物件を契約する人間など、その辺りの事は初めから織り込み済みだ。
「す、すみません。私、そういうは知らなくて……」
「まあ、そうでしょうね。とりあえず、水でも飲ませておきなさい。依存性は無いと信じたいけど、そこは頑張ってねとしか言えないわ」
「任せて。今なら幾らでも頑張れるさ」
「……本当に酷いわね、これ。頭悪くする成分でも入ってるんじゃないの?」
 呆れるあまり、もはや顔も見たくないとばかりにそっぽを向くニーナ。溜め息を混じらせながら話すその顔を、どうにかしてこちらを向かせたかったが、高揚感の割に体は重く、手を伸ばす事すらままならない。けれど、それを全く歯痒く思わず、ただただそれが異常であることを僅かに残る理性が認識するばかりだった。
「皆さん、おはようございます。ああ、私が最後でしたか」
 と、朝から陽気な声でアーリャが現れる。突然の挨拶に驚いたシードルが、慌ててアーリャから離れるように場所を変えた。
「どうかしたんですか? みんなで集まって、何やら変な雰囲気ですけど」
「実はね、台所にあったお茶なんだけど、どうやら麻薬だったみたいで。それでレナートがああなっちゃって」
 そう説明されたアーリャは、まじまじと俺の方を見つめる。瞬間、こんな状態でも俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。アーリャにとって麻薬はどういう位置付けなのか、確かめたことはないが容易に想像はつくからだ。
 しかし、
「そうですか。うっかりですねえ。じゃあ、朝食の支度をしますよ」
 普段と変わりない口調で笑いながら、アーリャは台所へ向かおうとする。そこでニーナが咄嗟に問い返した。
「え、怒ったりしないの? こういう事って、いわゆる堕落の一種でしょ?」
「別に麻薬が悪いとは思いませんよ。悪いのは、あくまで怠惰な者や罪を犯す者です。それだけで悪いとは思いません。それに、神様でも嗜む者は多いですから」
「……色々と危うい考え方ね」
 あくまでアーリャにとっての善悪は、罪を犯したか否か、という事なのだろう。
「それで、手っ取り早く体から抜く方法は無いの? あのままだと、かなり鬱陶しいんだけど」
「ありますけど、割に合いませんよ。とてもきつい薬湯を飲むことになりますし、部屋の中も臭くなります。これでしたら半日もしない内に戻りますから、放っておきましょう」
「なら仕方ないわね」
 そして、四人はあっさりと台所の方へ行ってしまった。後に一人残された俺だったが、やはり気持ちがやたら高揚していて孤独感がなく、ただひたすらへらへらとしていた。
 しかし、とんでもないものが無造作に置かれているものだ。人を短時間ながら、ここまで変えてしまうなんて。
 そう真剣な事を僅かな理性で考えてみたものの、それすらもすぐに馬鹿らしくなって止めてしまった。
 今はこうしていて良いが、後から今の事を思い出したら、恥ずかしさのあまり悶絶するのではないだろうか。そんな危機感を覚えつつも、俺はそのままひたすらぼんやりと何処か宙を見つめたまま、へらへらとし続けた。