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大した勾配のない山とは言え、尾根まで登るには相当の体力が要った。それなりに疲労していた事もあるが、何よりアーリャを背負って歩いている事が一番の負担となっている。それでも、明らかに不合理と分かっているにも関わらず、俺はアーリャを捨て置く事が出来なかった。まるで十年来の連れ添いを無碍に出来ないようにである。
「見て、あそこ。いよいよ本格的に始まったみたいね」
ニーナが指差す先には、丁度あの別荘地である街と、その周辺の平野が見えた。そこにはここからでも分かるほどの黒山の大群がひしめいていて、それは未だ黒煙の立ち上る街からずっと続いている。どこが勢力の境目かは分からないが、人の流れに停滞感がある所から察するに、意外と戦況は拮抗しているようだった。片方は何の訓練も受けていないはずの農民なのだが、正規兵相手に良くも善戦しているものだと感心する。
「別に他意はありませんが。彼らだけあの場に置いておいて良かったのですか?」
「……どの道、彼らはもう私の手には負えませんから。それに、領主にも逃げられた以上、あそこに留まっても仕方ありません」
ここまで人を集め巻き込んでおきながら、もう手に負えないと軽々しく口にし、投げ出してしまうとは。俺はドミニカに対して、怒りと呆れと落胆の入り混じった複雑な心境だった。生き延びて再起を図る、と言えば聞こえは良いが、言うなれば兵を置き去りにし大将だけが逃げてきたという事である。今は自分の雇い主なのだけれど、本音では彼女の行動に納得はしない。特にあの、裏切った人間への吊し上げについても、俺は少なからず蟠りを感じている。ニーナはドミニカをわざわざ助けて来たが、本当に助ける価値のある人間なのかと疑問にすら思えてきた。
「ところで……あの街での戦況は一体どうだったのですか? 領主側が我々の行動を把握していた上で待ち伏せていたのでしょうから、アーリャが居たにしても平坦な戦端では無かったと思いますが」
「ええ、それなのですが……実は他にも内通者が居りまして。アーリャさんはそれで油断してしまっていたのでしょう、そのままあのような事になったのだと思います」
ドミニカは申し訳なさそうな表情を浮かべながら、俺に背負われているアーリャにちらちらと視線を向ける。アーリャを見る彼女の視線に、見た目の申し訳なささ以外にも僅かな好奇が混じっているのを俺は見逃さなかった。何故、こうして一目散に逃げなくてはいけない状況で、わざわざ死んだ人間を同行させているのか。そんな心境だろう。
「あなたはどうされていたのですか? アーリャとは、行動を別にしていたようですが」
「私は陣頭指揮を執っていました。専門知識はありませんが、発起人でもある私が最前線で皆を先導するのは当然ですから。ただ、ひたすら前進する事ばかり考えてあまり戦況を良く見ていなかったのが悪かったのです。気が付けば、昨日の時点であると分かっていたはずの待ち伏せに自ら飛び込んでしまい、そこから方々の体で逃げて参りました。後の戦況は、正直な所よくは分かりません。それから間もなくニーナさんに助けて頂いた訳ですから」
結局の所は、事前に内通者がいた事を分かっていながらも、その罠に敢えて飛び込んだ上にこの様という事である。その場に俺が居れば、例え農民の寄せ集めであろうとももっと上手く指揮する事が出来たはずだ。過ぎた事をどうこう言っても仕方がないが、やはり理想主義の煽動屋ではこの程度の所だろう。大義あっての行動ではなく、単に私情で、抑圧された人間へストレスの解放場所を与えただけに過ぎない。だから、集団として行動に一貫性が無く、今回の主旨と無関係な人間が何人も殺されたのだ。
それこそドミニカが非難するような、自分の満足のために他者を食い物にして憚らない人間と同じではないか。だからこのまま放り出して、後は自分達で何とかしてしまおう。そんな事を言い出したくなる衝動に駆られながら、俺は黙々と山道を歩き続けた。少なくとも、しばらくの避難に彼女の存在は必要なのだから、そこは合理的に割り切る必要がある。
尾根伝いに東へ進み、やがて下りの山道へと入る。山道はむしろ下りの方が体力を使うため、背負ったアーリャの体が急に存在感を増してきた。線は細くあまり良い体格ではないアーリャだが、こうして背負っているとそれなりの体重を感じる。そして、接点である背中側がやけに暑く感じた。アーリャの体は相変わらずほのかに温かく、冷たくなるどころか一向に硬直すら始まらない。傷口の血が止まっているのは心臓が動いていないせいだとして、こうも生き生きと感じるのは何故だろうか。俺の肩の上で揺れ動いている顔からは、全く吐息が感じられないというのに。
ふとニーナが言っていた、アーリャが生き返ったどうこうという話を思い出した。この明らかに普通とは違う死体の様相から、やはりそれは事実なのではないか、そんな予感すらしてしまった。一度死んだ人間が生き返るはずはないが、もしかしてアーリャは本当に生き返るのではないか。普通なら一蹴してしまう馬鹿馬鹿しい話だが、心身が疲れているせいもあるだろう、検証は今からまさに行う事が出来る、そんな事を考えてしまった。