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「誰だっ!」
 何者かが迫り来る緊張感と自分の置かれた状況への困惑から、精神的な余裕の無い俺は耐えかねてそこに叫んだ。情けないほどに動揺している今の自分に、俺はショックすらも覚えた。自分がここまで精神的な弱さを持っているとは、これまでも思ってもみなかった事だった。
「待って!」
 すぐさま返ってきたのは、聞き覚えのある女性の声だった。まさかこんな所で聞くとは思ってもなく、俺は呆気に取られそうになる。
「まさか……ニーナか?」
 その問い掛けに答えるよりも先に、茂みの中からニーナが姿を現した。そして、彼女のその姿に俺は驚いた。俺と同じく全身が煤まみれで、しかも傍らには肩を貸されてようやく歩いているドミニカの姿まであった。最後に別れた時、確かにニーナはあの街の外へ出て行ったと思ったのだが。
「お、おい。大丈夫か?」
「多分。少し煙を吸ってるから、休ませれば大丈夫よ」
 見た目よりも力強い足取りのニーナは、ドミニカを川辺へと連れ、そこで水を飲ませた後に横にさせる。ドミニカはほとんどまともに話せないほど衰弱していた。その有り様でここまで辿り着けたのが不思議なほどである。よほどここまでの道中で体力を使ったに違いない。
「ここもあまり長居は出来ないぞ。あの連中がいつ追い掛けて来るか分からない」
「心配無いわ。どうせ時間切れよ。間もなく騎兵隊が来て、正面衝突になるから」
「なんだ、領主は無事に逃げおおせたのか」
「ううん、それはまだはっきりしていない。けれど、この騒ぎをこれ以上長引かせる訳にもいかないから、先に事態を収拾させておくのよ。騎兵隊を送り込むのは、領主の弟の方。このどさくさに紛れて、兄である領主を謀殺するつもりなの」
 何気ない素振りで話したニーナの展開はあまりに唐突過ぎて、俺にはすぐに事情が理解出来なかった。突然と出て来た領主の弟の存在と彼らの派閥争いについて、まずは俺達がどう関わっていたのか見えて来なかった。
「どういう事だ? と言うより、どうしてそんなに見て来たかのように詳しい?」
「私の本当の雇い主が、その領主の弟だからよ。ドミニカがちゃんと領主に対して武力蜂起するように、その連絡係と調整役を兼ねてね。途中で領主に蜂起自体を阻止されたら、元も子もないでしょ」
 つまり、ニーナは最初からドミニカ側の人間では無かったという事だ。雇い主の目的は領主とドミニカの抗争が発生した事実のみで、いざ事が成れば彼らを一網打尽にし、自身が鎮圧した事実のみをもぎ取る。それを根拠に次の領主となる腹積もりだろう。
「こっちも危うく殺される所だったけど、どうせ前金で貰ってるからね。ここまで来れば、後はもう死なないよう適当にとんずらさせて貰うだけよ」
 とは言いつつ、ニーナは特に助ける必要も無かったドミニカを無理に助けて来ている。普段の口振りはああだが、やはりそこまで非情にはなれなかったのだろう。
 ふとニーナは、アーリャの方へ視線を向けた。
「アーリャは?」
「駄目だ。もう死んでいて、どうにもならなかった」
 するとニーナは、怪訝な顔をするどころか、意外にも安堵の微笑を浮かべていた。
「それなのに、この状況でわざわざ連れて来たの? 私があれだけ言ったのに。そもそもあいつは、絶対に信用ならないって」
 ニーナはアーリャは危険だと言っていた。それは俺にも分かる。だがそれでも、あそこに置き去りになどどうしても出来なかったのだ。情が移ったというような、そんな心境である。
「本当に変わったわ。完全に別人と思えるくらいに。きっとアーリャに何かされたんでしょうけど」
「誉められているのかどうか、分からん言い草だな」
 ニーナの言う過去について、俺には一切その記憶はない。だから、単なるニーナの勘違いか、別な誰かと間違えているとしか思えなかった。ただ、このニーナの反応を見る限りだと、過去の俺が今のお人好しでうだつの上がらない俺に変わったのだと、そう信じたい願望のような心情が感じられた。
「なあ、俺の過去についてもう少し詳しく話してくれないか? 俺の記憶違いなのか、それとも本当にアーリャに何かされていたのか。お前の言う事は全く覚えの無い事ばかりなんだ」
「詳しくって言われてもね。あんたとの腐れ縁も何だかんだで長かったし、どこから話したら良いものやら」
「大筋だけでもいいから、出来るだけ古い所から。記憶の差違の始まりを探りたい」
「そうね、それだと……」
 ニーナは額についた煤を拭いながら記憶を辿り始める。そんなに長い付き合いだったのか、と俺は少々意外に思った。
「もう六年も前かしらね。お互い、村を出たばかりで志だけは立派だった頃。たまたま地方役人の護衛の仕事を請け負い、そこで知り合ったのが最初。あんたは無口だったから分からないけど、まあ気は合った方じゃないかしらね。で、その時の仕事なんだけど、単なる護衛のポーズで終わるかと思ったら、たまたま反政府ゲリラの襲撃を受けちゃってね。私も正直なところ自分の身を守るだけで精一杯で、護衛らしい事は何も出来なかったんだけれど。その時のあんたは別だったわ。どんな口車を使ったのか瞬く間に別働隊を編成させ、それを囮にしてうまく切り抜けた事で依頼主を守ったの。依頼主からは絶賛されたわ。もっとも、囮の方は全滅しちゃったし、あんたも初めからそうさせるつもりだったようだけれど」
 それは俺の初仕事の話だ。確かにその時の事は憶えている。ただ、やはり記憶と異なる部分もあった。捨て石となる別働隊を構成したのは他でもない依頼主で、俺はずっと隅でグズグズしていただけだ。ここから既に食い違いが発生している。
「それで、しばらくは何度か顔を合わせるようになって、自然と仕事でも組むようになったわ。あんたは相変わらず口数が少ない割に、仕事のやり口はえげつなかったけれど。まあそんな生活を続けながらあちこちを転々とし続けて。どうにか安定した雇われ仕事に就けないかと思っていたら、転機になりそうな仕事をあんたが持ってきた。誰かに無理やり頼まれたらしく、あまり乗り気じゃなかったけどね。それが二年程前のこと。ここは前にも話したけれど、依頼主の名前はドミトリー、とある複合企業の重役で名家の出身。後継者争いに際した護衛が主な仕事の内容ね」
「その時にアーリャと知り合ったという事か」
「そう。まあ如何にもな綺麗事ばかり口にして、何かと周りを巻き込もうとするから、私を初めみんなからはあまり良い印象は持たれてなかったわ。だけど、魔法の使い手としては凄かったから、何かと重宝されていたの」