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「お、おい。何だよ、急に」
「いいから! 早く行くわよ!」
突然のニーナの言葉に、俺は大きく動揺していた。まさか仕事を途中で放り出して、しかもよりによって俺に愛想を尽かしたはずのニーナが一緒に逃げる事を提言してくるなんて。俺の知っているニーナは、良くも悪くも仕事には合理的に取り組むプロフェッショナルだった。それがこんな感情的な行動に出るなんて。
「だから、待てって。それは、この仕事はもう勝手に降りるって意味なのか?」
「そうよ。もう付き合い切れないってば。このままあれと一緒にいたら、頭がおかしくなりそうだもの」
「じゃあ、なんで俺も逃げなきゃならないんだ?」
「あんたもおかしくなってしまうからよ。全く自覚してないの? あんな奴、やっぱり関わるべきじゃなかったのよ」
いささか感情的ではあるが、ニーナは過去に俺がアーリャと面識のあったかのような話し方をする。以前も、俺とアーリャがかつて仕事で関わったといった話をしていた。人違いか担いでいるのでもなければ、本当に俺は昔の事を忘れている事になる。
何を馬鹿な。どうせ、お前の思い違いだろう。
ニーナの言葉をそう軽く笑い飛ばしたかった。けれど、ある可能性がそれを俺にさせなかった。そう、アーリャは失伝したり伝説上のものでしかなかったはずの魔法を、幾つも知っているのだ。
「あんたがおかしくなっているのも、絶対にアーリャのせいよ。あいつ、あんたを自分の思い通りにするために、そうなる魔法を使っているんだわ」
「いささか飛躍し過ぎじゃないのか……? そんな事をして、何の意味が」
「あんたは、狂人に行動の理由をいちいち訊ねるの?」
アーリャが完全に正気である確信、それを俺は持ち合わせていない。アーリャは、普段こそ温厚だが、相手が自分にとって悪人であればゴミ以下に扱える冷徹さを持っている。その面を正気の反対と見て良いものか、断言は出来ないが、可能性だけは否定出来ない。
「さあ、悠長にこんなお喋りしている時間はないわよ。ほら、さっさと出て。森の方へ行くから」
ニーナは俺を立ち上がらせ、後ろから小突き回しながら強引に歩かせる。とにかく逆らっても仕方がないので、俺はやむを得ずそれに従った。
納屋の外は、一階廊下の奥へ繋がっていた。窓が無いためあまり日の光は入って来ないが、それでも今が早朝である事くらいは、僅かな明るさと空気の冷たさで察する事が出来た。時間的に、依頼人であるドミニカはアーリャと農民達を連れて領主の別荘を襲撃しに行っているだろう。こちらの行動は直前まで筒抜けになってはいたものの、アーリャが居れば、それはほとんど問題にはならないだろう。
「念のため、勝手口からね。台所は向こうだから」
ニーナの焦りが滲んだ指示に従い、この屋敷の台所を目指す。確か、廊下の入り口近くにある食堂に隣接していたのが台所だったはず。そこから勝手口へ繋がるだろう。
「なあ、昔の俺ってどうだったんだ? 今の俺と何が違う? そんな変わった自覚はないんだが」
その最中、ふと何気なくニーナにそんな質問を投げかけてみる。
「……まるで別人よ。良くも悪くも」
「悪くも?」
「そう。昔の、というよりも、元々のあんたは悪党そのものだったわ。それも、ただ人を殺して粋がってるような小物じゃない。策略で人を嵌め、到底かなわないような相手を倒したり、国庫からとんでもない額の金を持ち出したり。如何に法の穴を突くか、如何に効率良く目的を達成するか、そんな事ばかり生き甲斐にしていたわ」
何だ、それは? どこの誰の話だ?
ニーナの話に、俺は思わず唖然とする。この御時世、そんな悪党など世の中には腐るほどいるだろうが、俺自身は一切関わりも関係も無い。そもそも俺は冒険者として純粋に名前を売りたいだけであって、有名な悪党になりたい訳ではない。第一、そんないつ自分の身を滅ぼしてもおかしくはないような生き方をしておいて、それをあっさりと忘れるはずはないのだ。
「あんたとあの事件に巻き込まれたのは、私にとっても自業自得。私はたまたまアーリャに救われたけれど、あんたももしかするとそうだったのかも知れない。けど、今のあんたにはあの頃の面影なんてこれっぽっちも残ってないわ。まるで、アーリャの傀儡よ。もっとも、大勢の人を道具扱いして手玉に取ってきたあんたの末路としては、これも相応しいのかも知れないけれど」
かつての俺はどうしようもない悪党で、その時の記憶をアーリャに消されたというのだろうか? それが仮に事実だとしてもだ、あの悪には一切容赦の無いアーリャがそんな俺を救うとは到底思えない。それに、アーリャはニーナの目の前で惨殺されたという。今のアーリャとは別人なのかも知れないのだ。
全く訳が分からなくなってきた。時系列もそうだが、そもそも俺自身が知っている自分の過去とニーナのそれとに、あまりに大きな食い違いがある事が理解出来ない。
「なあ、それなら俺とお前が組んでいたのも、本当は記憶違いなのか?」
「間違いじゃないわ。もっとも、あんたが私を相棒として見てくれていたかは定かじゃないけれど、少なくとも私達は一緒にヤマをやってたし、私も捨て駒にはされなかったわ」
自虐的とも取れる言葉だったが、ニーナの表情はいたって真剣そのもの。とても皮肉を吐いているようにも見えなかった。
俺は人を簡単に捨て駒にする人間で、ニーナはそれを承知の上で俺と組んでいた。一体俺達はどういう関係だったのだろうか。訊ねれば訊ねるだけ、疑問が増えていく。