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「うわああああ!」
その直後、視界のままならない俺の耳に聞こえてきたのは、まるで断末魔のそれのような悲鳴だった。同時に、視界を閉ざしていた眩しい光は嘘のように消え去り、目の眩みも嘘のように、再びぼんやりと薄暗がりだけの風景が戻る。
「えっ? な、なんなんだ、あれは?」
村人達は、窓際の一角へ視線を向けながらどよめき出す。そこには、まるで見えない腕に胸倉を掴まれているかのように、一人の男が宙へ釣り上げられていた。男は酷く慌てふためきながら手足をばたつかせるが、胸倉から浮かんだその体はびくともせず、手足もまた無為に宙を切るばかりだった。
「アーリャさん、あれが裏切り者ですね?」
「はい、そうです。間違いありません」
瞬き一つせず、無表情に問うドミニカに対し、アーリャは普段と変わらぬ調子で答える。
「う、嘘だ! 俺は裏切ってなんかいない!」
釣り上げられた男は、しきりに見えない力に抵抗を続けながら、必死で自らの無実を訴える。周囲の村人達は、男の潔白が云々以前に、目の前で起こっている状況に理解が及ばず、どのようにして良いのか分からず右往左往している。そんな彼らにアーリャは、子供を諭すような優しげな声で語り掛けた。
「この者は、人を騙す事は出来ましたが、神の目までは誤魔化せません。かの罪は智の神ラハブの御力によって明らかにされました。ラハブは、何時如何なる時も、善良な人の子らの味方です。あなた達の繁栄を願うものなのです」
神の力。抽象的ではあるが、この状況下ではこれほど説得力のある言葉はないだろう。たちまち村人達は、まるでドミニカとアーリャが神であるかのように畏敬し始める。けれど、ラハブなどという神は聞いたことがない。そもそも、智の神という括りがおかしいのだ。神は、宗派による呼び名の違いこそあるが、全知全能であり唯一の存在のはずだ。
「待ってくれ! 俺が一体何をしたと言うんだ!? 俺が裏切ったとか、あまりに一方的だ! どこにその証拠がある!? 俺が何をしたのか、説明出来るのか!」
まるで自ら罪を認めたかのような言い草だが、確かに言う事にも一理ある。アーリャが彼を裏切り者と断定した理由、その説明も無いままでは、アーリャが一方的に生贄に選んだだけのようにすら見える構図だ。
「いいでしょう。では、皆さんにも分かるようにして差し上げます」
そう言ってアーリャは、小声で何事かをぶつぶつ唱えながら左手で宙に小さく文字を描く。文字は薄暗がりの中でも読めるほどくっきりとした輪郭を持ち、ゆっくりと点滅をしている。だがその文字は、生まれてこの方見たこともないような言語で、意味はおろか大まかな発音すら想像も出来なかった。
「これが、彼の所業です」
おもむろにアーリャは左の人差し指を示し、その指で彼を指す。直後、再び眩しい光が場を包んだ。今度はほんの一瞬の出来事で、閃光は程なく収まる。代わりに、彼のすぐ頭上にぼんやりとした光の雲が浮かんでいた。
「今からそこに、彼のして来た一部始終を映します。我々に対する裏切りか否かは、これではっきりとするでしょう」
そうアーリャが言うなり、突如発生した光の雲に何かが映し出される。良く見るとそれは、まさしく彼自身の姿だった。
場所は、どこかの山間の休憩場だろうか。そこに彼は一人で佇んでいる。その様子は落ち着かず、しきりに周囲を見回したり、何度も手足を延ばしては体をほぐしている。誰かと待ち合わせているようにも見受けられた。
「どこだ、あれ?」
「西側の街道沿いの近くにある、炭焼き小屋じゃないのか?」
「あれはもう使わなくなっただろ。随分前に新道が出来たから、南に降りた所の小屋を広げて使ってる」
風景を映し出すこの奇妙な雲、それを見る村人達は口々に場所について話し出す。そんなざわつく彼らとは対称的に、男は見る間に表情が青ざめていった。
「おい、誰か来たぞ!」
やがて雲の中にはもう一人の人物が現れる。それは、黒い外套で身を包み、立てた襟と同じ黒の防止で顔を隠した男だった。見るからに農民とは違う鋭い雰囲気で、その立ち居振る舞いはむしろ憲兵などに近い。それも下っ端の下級兵とは違い、熟練した者のように見える。
雲の中の男二人は互いの姿を確認すると、どちらからとも無く歩み寄り、すぐさま何事かのやり取りを始める。声は聞こえなかったが、明らかに良からぬ密談のように見えた。
「おい! 何か手渡したぞ!」
誰かが雲を指さして声を上げる。二人はそれぞれ封筒と革袋とを交換し、その中身を確認する。具体的に何を交換したのかは見えないが、革袋の中身は金、封筒の中身は何かしら我々の内情を記したものだろう。
「どうです? これで、私の言っている事が出鱈目ではないと証明されたでしょう」
得意気に話すアーリャだったが、一同の視線は既に男の方へと向けられていた。その冷ややかで怒りに満ちた視線は、ただでさえ青ざめた顔をしていた男を一層震え上がらせる。
「待ってくれ、違うんだ! 仕方がなかったんだ! こうでもしないと、俺だって家族が……!」
歯を鳴らしながらも切実に訴える。だが、その言葉に耳を貸そうという者は一人として見当たらなかった。何かしら已む得ない事情があるように思うが、それよりも裏切ったという事実のみが問題になっている。彼らとっては、身内の裏切り者は如何なる理由があろうとも許せない。事情や背景などを考慮する容赦を持つ余裕が無いのだ。
「これで、全てが明確になりましたね。それではアーリャさん、処罰をお願い致します」
「はい、分かりました」
ドミニカの言葉に即答すると、アーリャは続いて右手の人差し指を宙へ走らせ紋様を描き出した。その紋様の意味は俺には分からなかったが、直感的にそれが人を殺めるものという事だけは分かった。