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 体を前へ屈め、膝の上に手をついて支えながら、何度も激しく咳き込む。ようやく落ち着いて吸えた空気は生ぬるく感じたが、乾燥した喉には刺激が強かった。咳き込みながらも、少しずつゆっくり呼吸を整えていく。額からは今頃になって汗が噴き出し、背中はぐっしょりと濡れている。疲労感よりも、とにかく全身が熱っぽくなっている方が不快だった。
 後ろを振り返ると、俺達が今し方まで通っていた山道は、岩が幾つも積み上がっていて通ることが出来なくなっていた。あまりに多過ぎる岩の数々に、よくもこの中を無事に通り抜けられたものだと、背筋がぞっとする。周囲を見れば馬車と俺以外には誰もおらず、あれだけいた面々は全てあの岩の中へ呑み込まれてしまったようだった。この中を無事に切り抜けられたという事は、もはや奇跡としか言いようがない。
「他は誰もいなさそうね」
 ニーナが周囲を見渡しながら馬車を降りる。誰も残っていない。その言葉は、別段彼らとは親交を深めていた訳では無いとは言え、胸の詰まる思いにさせるものだ。
 馬車に近付き、依頼主の様子を窺う。彼女は馬車の一番奥に座り、俯き加減のまま震えていた。表情は隠れて見えないが、どんな顔をしているかぐらいは想像に難くない。
「ねえ、これもアンタを狙ってる奴の仕業?」
 ニーナのその問いに、彼女は力無さげに一つだけ頷き返した。やはり、この落石は人の手によるもの、人為的な攻撃だったのだ。そして彼女の言うことが正確ならば、仕掛けてきたのは憲兵という事になる。
 憲兵が本当に敵なのかはさておき、これだけの事をやれる相手に狙われているという事実ははっきりした。彼女が確実に命を狙われていて、護衛を必要としている。だから、あんな金をばらまくようなやり方で早急に人を集めたのだろう。あまり賢い方法ではなかったが、少なくとも俺やニーナのような良識のある人間が来て、二人とも何とか生き延びる事が出来た。
「残ったのは私達だけみたいね。まあ、もう何人か居るんでしょうけど、ここまでの目に遭わされたら、流石に追っては来ないでしょう」
「とにかく、先を急ごう。馬車が突破した事は把握されているかも知れない。すぐに追っ手がかかるはずだ」
「そうしましょうか。人の居る所なら、まず襲われないでしょうけど。行き先、このままでいいの?」
 ニーナに問われ依頼主の彼女は、未だうつむいたままもう一度力無く頷く。雰囲気から察するに、これまで喧騒とは無縁な世界で育てられた人だろう。そんな人間に、今の出来事はあまりに刺激が強過ぎたはずだ。ショックが簡単に抜け切らないのも仕方のない事だろう。
 馬車にニーナが乗り、俺は馬車の後ろを付いていく態勢で再出発する。山道は間もなく終わり、街道まではさほど遠くない。街道に出れば、どこかしらの街にすぐに着く。今日のところは、それが一番無難な落とし所だろう。敵がこちらの目的地まで知っているとしたら、無理な移動は更に危険だ。
 前方と周囲の見張りはニーナに任せ、俺は馬車の中からは死角となる後方を中心に睨みを利かせる。さっきの落石は、確実性には乏しいかも知れないが、幾らでも言い逃れの出来る方法だ。この先、同じような手段を彼女が死ぬまで繰り返してくる可能性もある。敵も社会的な立場のある人物だから、こういった回りくどい手を使うのかも知れない。それだけに、警戒色はこれまで以上に強めていかなければならないだろう。
 こっちはこんなに切迫した状況だというのに、アーリャは一体どこで何をしているのだろうか。そんな苛立ちが頭を過ぎる。落石の前から、何も言わずに忽然と姿を消したのだが、この状況になっても未だ現れない。意味の分からない事をする奴ではあるが、我が身可愛さに逃げ出すような人間ではない。だから、いい加減に戻って来ても良さそうなのだが。
 程なく山道を抜けると、広い街道へ入った。まだ日は暮れていないが、大分傾いているせいか、街道を行き交う人の姿は無かった。もうほとんどの人は街へ戻ってしまっているのだろう。となると、一番近場の街までもそれなりの距離がある事になる。夜になれば、街道は一転して襲撃には恰好の場所となる。あんな大量の岩を転がしてくる連中なのだ、物量に物を言わせた襲撃を仕掛けられては一溜まりもない。
「レナート、こっちに乗りなよ。街まで急ぐからさ」
 ふとニーナが窓から顔を出し、そう呼び掛けて来た。向こうもまた、街までを急ぐ事には同感のようである。かと言って、狭い車内に割り込む気は無く、俺は馬車の出入り口にあるステップの所に腰掛けるまでに留めた。どうせ何かあれば、真っ先に対応しなければならないのは俺なのだ。此処に居る方が手っ取り早い。
 やや速度を速めた馬車に揺られ、ひたすら街道を突き進む。山道とは違って整備された街道はおうとつもなく、馬車は実にスムーズに進んで行く。心地良い僅かな縦揺れと、死ぬか生きるかの瀬戸際まで体力を振り絞ったせいで、気が付くと剣を抱いたままうとうととし始めていた。自分で歩かなくなった途端に、酷く疲労感が込み上げていた。早く宿に入って泥のように眠りたいと思うが、この仕事が終わるまではまともに休む事は出来ない。初日から随分と体力を消耗してしまった、今後の見通しが暗く思えてくる。
 何にせよ、今日はどこかの宿に着いて一区切りだ、そう思っていた時だった。ふと馬車の速度が少しずつ落ちていくのに気付く。何かあったのか、俺は馬車の縁に立って、前方の御者へ訊ねた。
「何かあったのか?」
 すると、御者は深刻な表情で前方を指差す。その先を見ると、この街道の先、緩やかな坂道を一つ下った辺りだろうか、見通しの良さそうな平地に大勢の人影が集まっているのが分かった。やたら大きな馬車が何台も並んで道を塞いでいる上に、馬防柵まで配置されている。
 あれは一体何の集まりか、その様子に目を凝らした直後、その中の一人がこちらに気付き指差して周囲にそれを伝える。俄かにその集団はこちらを向き、待ち構える姿勢を露わにする。
「レナート? 何があった?」
 馬車の中から、ニーナが訊ねてくる。
「まずい、検問だ。既に気付かれている」