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「グレープの証文は、確かにワシが買い取りました。ですが、それをずっと手元に置いていた訳ではないのです」
「そう、手放されたのですね」
「はい……その通りです」
 手放した。それはつまり、売却したという意味だ。
「何故手放したのですか? そんな事をすれば、彼が困窮するのは分かるでしょうに」
「実は、無茶な事業投資をしていたのは、グレープだけではありませんでした。ワシの所でも、同じように強気で無計画な先行投資をしていたのです。当然、借金は見る見るうちに膨らみ、余剰在庫だけ抱えて首が回らなくなりました。そこで、現金を少しでも作るべく、手近な処分出来るものは片っ端から処分していったのです」
 グレープの証文もまた、その手近な可処分財産だったという事だろう。そして売却した時点で、グレープの店は全く見ず知らずの者の手に渡ってしまう。証文の持ち主が親友か他人かでは、天地も差があるだろう。友人間での金の貸し借りはトラブルの原因になると、世間一般では良く知られている事だ。これもまた、その延長線に当たるケースと言えるだろうが、金額が金額である事と、そこに至るまでの経緯が不穏当であるため、マカールのした事は油樽に火を点けるような比喩しか思い浮かばない。
「それで何とかワシの所は、危機を乗り越える事が出来ました。しかしグレープの所は……。御存知の通り、奥さんの件もあります。グレープが自殺したのも、無理からぬ事だと思います。本音を語れば、ワシはあまり驚かなかったのですから」
 マカールはそもそも、グレープがそこまで追い詰められていたという事を知っていたのだ。証文の件と、白桃の瓶詰めの件、その二つの負い目があったから話しかけられなかったのだろうが、どうにも俺には、死ぬと分かっていてみすみす死なせたようにしか思えなかった。
「という事は、グレープさんが自殺した理由も、もっと複合的なものになってきますね。世に絶望したのが最も大きな理由でしょうが、家業である酒家が他人の手に渡った事、最愛の奥さんに先立たれた事、そしてそのどちらにも親友であるはずのあなたが関わっていた事。あなたを強く恨み、そして取り憑いたのは、極めて自然な流れと言えます」
「それで、ワシは一体どうしたら……。もちろん、謝って許される事では無いことくらいは、分かっているつもりですが……」
「そうですね、これはあくまで人の残した怨念ですから。対話にしても、無理でしょう」
 アーリャはあっけらかんと答える。これだけ大層な事をしておいて、随分呆気なく無理だと言えるものだ。俺は驚きを隠せなかった。アーリャの事だから、何かもっと手段を色々と持っていると思っていたのだが。
「なあ、無理という事は、この件はどうしようもないという事か?」
「穏便に収める、という意味では」
「穏便じゃない方法ならあるのか?」
「あります。ありますが、私はあまり好きでは無いのです」
 そう口を尖らせるアーリャだったが、方法がまだ残されている事に俺は安堵する。だったら、その方法を試せばいいのだ。多少危険でも、今の状況よりはずっとマシだろう。
「取りあえず、その方法を教えてくれ。一応、この事態を解決出来るんだろ?」
「いいえ、単に蓋をするだけの方法ですから、解決とは言えません」
「マカールさんが、元の日常を取り戻すなら、解決でいいだろう?」
「親友だったはずの霊を一方的に消してしまってでも、解決と呼んで良いものですか?」
 消す。その言葉には妙な凄みがあり、俺に安易な即答を自制させる。
「方法というのは、グレープさんを消す事なのか?」
「ええ、そうです。天界に行く意思もなく、怨念も晴らせないのなら、そうするしかないでしょう? ただし、一度消したならば、もう次の生は望めません。これは完全な消滅ですから」
 それは生まれ変わりの事を言っているのだろうか? レト教の教典にはそんな事も書いてあるが、実際人間が死後に天界に行ったり、別な人物に生まれ変わるなど、到底有り得ない事だ。
「グレープは……死ぬのでしょうか?」
 しかし、アーリャに頼りきりのマカールは、完全に真に受けてしまっているようだった。必死で哀願するように、アーリャに救いを求めている。人は年を取ると、ああも弱くなるものなのか。そんな事を、つい考えてしまった。
「死ではありません、消滅です。もう何もかも感じなくなり、意識も消え失せ、塵も残らない。全く何も存在していない、そんな状態です」
 事実はともかく、その言葉にはマカールも流石に衝撃を隠せず、動揺の色をありありと浮かべた。一度は親友を自殺に追い詰めてしまったのだ、その上消滅させるなどと、普通の神経ではたじろいで当然である。死体に鞭を打つどころの話ではないのだ。
「実のところ、この方法はさほど難しくありません。どうしても知りたいのでしたら、お教えします。ですが、この手段を行使するかどうかは御自分で判断して下さい。このまま親友の恨みを背負うも良し、あえて禍根を断つも良し。強制はしません」
 最後の選択は、マカールに任せるというのだろう。妥当なようにも、無責任なようにも思えるやり方だ。けれど、結局の所はマカールの問題なのだから、部外者の俺達が口を挟むよりもマカール自身が決める事が一番妥当なのかも知れない。
 その事は、マカールも分かっているのだろう。真っ青な顔でしばらくアーリャを見ていたが、やがて意を決したように、小さく弱く一つ頷き返した。