BACK

 これでも、命懸けの修羅場は幾つも潜り抜けて来ている。多少の状況でおたついたりはしない、自信と度胸は持ち合わせているつもりだった。けれど、この状況にすっかり飲まれていた事と、目の前のあまりに異様な組み合わせに、俺はついその場に茫然と立ち尽くしてしまった。
 マカールを探していたのだから、それが見つかるのは良い事だ。しかし、何故手斧なんか持っているのだろうか。まさか、向こうも何かに警戒していて、そこに突然俺が現れた事に驚いているのか。
 初めはそんな平和的な解釈をした。けれど、すぐにそれは間違いであると気付かされる。
「ああ……」
 空気が漏れるような、言葉だか音だか分からないような事を発し、マカールがゆらりとこちらへ進んでくる。視線は虚ろで宙を向いており、確かめるまでもなく、明らかに異様な反応だった。普通なら、まず何故俺がここに居るかとか、そんな会話から始まるはずだ。それすらも今のマカールは口にしない。
 一体どうしたら。
 対する俺もまた、すっかり困惑しきっていた。真っ当に相対するか、有無を言わさず制するか、その線引きに迷ってしまったのだ。
「マカールさん? マカールさんですよね。私です、レナートです。ちょっと待って下さい」
 そう呼び掛けてみるものの、マカールはゆらゆらとした前進を止めない。それどころか、少しずつ手斧を持つ腕の高さが上がって行く。振り下ろす意外に理由のない行動である。
 これは、応戦しなければ危険だ。
 そう判断するものの、そこでようやく今の自分の格好を思い出す。俺は水を飲みに降りてきていたのだから、ここまではほぼ寝間着のまま来てしまっている。応戦しようにも、自分の剣は部屋に置いてきたままだ。
 そうこうしている内に、マカールがすぐ目の前まで迫ってきた。手斧は頭上まで振り上げ、今にも襲い掛かって来そうな雰囲気である。
 ハッと息を飲んで一歩後退ると、何かが腰に当たってそれ以上下がる事を阻まれる。咄嗟に手を伸ばすと、それが吹き抜け廊下の手摺りである事が分かった。
 このまま迎え撃ったら、なすすべなく一階まで叩き落とされてしまう。もう少し位置取りを考えなくては。そう思った直後、マカールはまるでこちらへ倒れ込むかのように、体ごと手斧を振り下ろして来た。すぐさま右手へ滑り込みながら、マカールの一撃をかわす。マカールは、派手な音を立てながら、俺が直前まで居た所に突っ込む。手斧は突っ込んだ勢いで吹き抜け廊下の手摺りの一本を叩き割り、マカールの体は廊下へ顔から転倒する。床にうつ伏せに這いつくばったまま、手斧を持った右手だけが手摺りにかかったせいでピンと伸びている。滑稽にも恐ろしくも見える、目の離せなくなる光景だ。
「だ、大丈夫ですか? け、怪我は……」
 果たして、今のマカールにかける言葉はこれで合っているのか。そんな事を考えながら、自信無さげに呼び掛ける。
「う……」
 マカールは、声に反応してか否か、すぐに床へ手を付いて体を起こそうとする。本来なら手を貸してやるべきなのだが、あまりの異様さに、ただただ突っ立ったままそれを見ていた。
 膝を体の内側に入れながら、ゆらりと上半身を重そうに持ち上げる。あれだけ派手に転倒していながらも表情はまるで無く、相変わらず虚ろな目をしている。どこかに掠めたらしい額から血が一滴滴っていて、それにも気付いていない様子だ。
 立ち上がったマカールは、手摺りに噛んだ手斧の柄を両手で持って引き抜こうとする。しかし見た目より深く食い込んでいるのか、手斧は簡単には抜けない。それでも構わず強引に力を込めると、不意に手斧は抜け、その反動で尻餅をついた。
 次の瞬間、俺は飛び出していた。
 まず、手斧を足で踏みつけ、床に固定する。そして、両手でそれぞれの手を取り、そのまま動けないように組み伏せる。老人相手に、随分と乱暴な対応だと思った。けれど、明らかに普通ではないあの様子を見た後では、下手な加減はかえって命取りになるように思えてならなかった。
「マカールさん、私です、レナートです! しっかりして下さい!」
 再度大声で呼び掛けてみるが、マカールはまるで返事をしない。そればかりか、辛うじて動く首だけで、床に落ちた手斧を何とか取ろうとしている。首だけでどうするつもりなのか、そう思ったが、もはや理屈ではないのだろう。今のマカールには、そういった判断能力は無いのだ。
 マカールは正気に戻る気配は無い。俺にも正気に戻す手段はない。となると後は、多少胡散臭いが色々な知識を持ってるアーリャに頼るしかないが。それと連絡を取る手段は無い。
 何もかも、無い尽くしではないか。そう嘆きたくなったが、とにかくこのままじっとしていても始まらない。ひとまず、多少強引でもマカールを連れ帰って、アーリャに何とかしてもらうのが良いだろう。
 俺はマカールを抑えたまま、うまく上着を半分剥いで腕が自由に動かないように固定する。そして後ろ向きに立たせると、後ろ手にしたまま強引に引き摺っていった。すぐさまマカールは何事かをしようとするが、流石に俺とでは力の差は大きいので無理に引き摺る分には問題なかった。
 うっかり転ばないよう、慎重に階段を降りる。すっかりこの暗闇にも慣れてしまい、最初に入った時よりも中が良く見えた。そして何よりも、この小競り合いの後のせいか、随分と気が大きくなっていた。まるで怪談そのものだ、などと怯えていた少し前の自分が馬鹿らしく思える。
 僅かに浮かんだ汗も引き、少しずつ肌寒さも感じてきた。早めにマカールを連れ帰ろう。そんな事を思いながら、この建物を出た時だった。
「うわっ!?」
 突然の閃光に目が眩み、俺は思わず自分の目を手で庇ってしまう。完全に暗闇に慣れてしまっていたせいで視力もすぐには戻らず、状況が確認出来ない。
 一体何が起こったのか。そう警戒し身構えるが、程なく聞き覚えのある気の抜けた声が聞こえてきた。
「やあ、レナート。やっぱり、ここでしたね。君も気になっていたんじゃありませんか」