BACK
果たして一体何が待ち受けているのか。
俺はやや下世話な好奇心に胸を膨らませ、マカールの後を慎重に付けた。尾行の技術は、以前に専門家からある程度レクチャーして貰っている。着かず離れずの距離を保つことと、周囲の空気に溶け込むこと、そして絶対に結果を焦らないことだ。
その事を思い出しながらつけていくが、尾行自体は呆気ない程に順調だった。マカールはぼんやりした様子で、少しずつゆっくりと歩いている。初めは、老人が夜道を明かりも使わずに歩いているから慎重になっているのだと思っていた。けれど、うっすらと見えるマカールの表情は心此処にあらずといった印象で、実際にきちんと前を見ているのかすら怪しい。にもかかわらず、足取りは目的地に向かってなんら迷いがなく、意識がぼんやりしているようには思えない。
見れば見るほど、マカールの様子はおかしい。まさか、あれが例の呪いなのだろうか?
そんな事を思っている内に、徐々に俺の中から下世話な感情は消え、少しずつ緊張感が増してきた。真相を突き止めたい、そんな決意すら抱き始める。一体何が起こっているのか、目の前の状況すらも把握していないにもかかわらずだ。
やがてマカールは、一軒の建物の中へ音もなく入って行った。誰か知人の家だろうか、そう思いながら建物を良く見た途端、俺は思わずぎょっとして背筋が固まった。その建物は、俺達が昼間に居た、あのマカールの友人がかつて住んでいた酒家だったからだ。
既にマカールの姿は無く、追うなら中へ入るしかない。だが俺は、酷く進退を迷った。人間の幽霊など信じないが、こうして怪談のような不気味さを目の前にすると、やはりたじろいでしまうのだ。
しかし、これは明らかに異常な状況である。マカール自身が夜に入るのは危険だと言いながら、その本人が、心此処にあらずの様子で入って行ったのだ。絶対に、何かあるに違いないのだ。
意を決し、俺は息を潜めながら正面口より中へ入る。昼間は気付かなかったが、床板は少しの重さにも驚くほど大きな音で軋む。俺は更に足音を殺して、ゆっくり慎重に中を進んで行く。
外はまだ月明かりがあったが、流石に屋内となるとほとんど周囲が暗くて見渡せなかった。破れた窓から僅かに入ってくる月明かりだけを頼りに、とにかく音を立てない事と前に進む事だけを意識しながら捜索を続ける。ホールから奥の部屋へと抜け、厨房や事務室といった部屋を一つずつ捜索していくが、何処にもマカールの姿は無かった。おそらく、足音など気にしなくともほとんどまともに歩く事は出来なかっただろう。それなのにすぐに見つけられないという事は、マカールはこの暗がりを普段と何ら変わりなく歩けているのだろうか? そうだとしたら、ますます尋常ではない状況だという事になるのだが。
昼間もそうだったが、やはり夜に来ても何処も目新しい発見は無い。下がこうだというなら、やはりマカールは二階にいる事になる。そう、他ならぬマカール自身が危険だと言った、夜の二階だ。
どの道、危険な場所に居るのであれば、これを見過ごす訳にはいかない。俺は意を決し、二階へと向かう事にする。
ホール横の大階段を上り、吹き抜けになっている二階の廊下へ出る。二階は下よりも建物の傷みが少ないせいか、より暗闇が強まったように思える。そして何よりも、気のせいではなく息が苦しかった。この暗闇と尋常では無い状況に、緊張するあまり無意識の内に呼吸が減っているからだ。何かに強く集中しようとすると呼吸をつい止めてしまうものだが、それがずっと続いているのだろう。
呼吸はなるべく平素通りにを意識しつつ、未だ気配を悟られぬよう息を潜めて、そんな矛盾した心構えのまま廊下を進む。そしてまずは、一番手前の客室から中を窺った。やはりそこにはマカールの姿は無く、薄汚れた部屋の様子が辛うじて見える程度だった。ドアをそっと閉めた時、マカールがあの様子ならドアの開閉音など気には留めないのではないか、そんな事に気付いた。そうなると、マカールは廊下の一番奥の方へ向かった事になる。殊更闇の濃い、本当に真っ暗で視界も何も無いような場所だ。しかし、その割に足音が聞こえて来ない。これではますます怪談じみている。
当初の好奇心などとうに失せ、怪異に巻き込まれている人は放っておけないという使命感も揺らぎ、認めたくはないが今すぐにでも戻ってアーリャに助けを乞いたい、そんな心境にまで陥っている。だが、万が一にでもそれを犯してしまえば、ますますアーリャは調子に乗って付きまとうだろう。名実共にコンビの結成である。
足を止め、ひとしきり現状とプライドを秤にかけて悩み通した末―――。
「よし……」
もう少し踏み込み、身の危険を一度でも感じたらこの場から逃げ出そう。そしてアーリャに、マカールがいなくなったと、捜索を手伝わせる形で此処へ連れてくる。それならば、助けを乞う事にはならない。
そう算段を立てた俺は、半分開き直った心境で前へ踏み出した。
が、そんな直後だった。
ふと目の前の方から、一瞬ギラッと何かが鈍く輝いた。何事かと思い目を凝らすと、これまで聞こえて来なかった自分以外の足音が聞こえ始め、何者かがゆっくりとこちらへ近づいて来る。
「マカールさん?」
思い切ってそう呼び掛けてみるが、足音は近づいて来るものの返事はない。それで俺は、これは危険だと察知した。例えマカールであろうと無かろうと、返答も無く近づいて来るという事は、明らかに敵意があるか普通ではないかのどちらかだからだ。
身構えながら、暗闇からこちらに近づいて来る何者かに意識を集中する。やがて、階段近くの破れた窓から射し込む月明かりに、その正体が照らし出された。
「えっ……?」
それは、火災の時などに備えて置かれる片手斧を、無造作に手からぶら下げたマカールの姿だった。