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今まで涙を堪えられなかったのは、おそらく本気でそうしなければならない理由が無かったからなのだろう。昨日から今朝に掛けて、私は一時たりとも泣くことはなかった。本気で堪えれば案外抑え込めるものだと感心する一方で、私は窒息するような酷い苦しさに見舞われていた。本来泣くべき時に泣かないのは、自然の摂理に反する事だ。だからこの苦しさも当然だと思い、私は何も考えず悩まず、そのままこの窒息感を受け入れていた。
コウタがやってきたのは、丁度朝と昼の間頃の暖かくなり始めた時間だった。今日のコウタもまだ表情は暗く、ぼんやりと視線が虚ろに泳ぐ事がしばしばあった。まだあまり状況は良くなっていないようである。私が泣くのを止めるだけでは、効果はこんなものなのだろうか。
「あのね、少しの間、この町を離れるんだ。本当に少しの間かも知れないけれど」
遠慮がちな力のない声で、コウタは唐突にそんな話を切り出した。
「何処へ行くの?」
「少し離れた所に温泉地があって、そこにお父さんと。そこ、死んだお母さんとの新婚旅行で行った所なんだって」
「思い出の場所なのね」
「うん、そうなんだ」
そんな良い場所へ行くというのに、コウタの表情は相変わらず冴えない。ただの旅行ではないから、気乗りがしないのだろうか。
「お父さん、昨夜目を覚ましたんだ。だけど、本当に覚ましただけでさ。起きてはいるけど、ぼんやりして周りがよく分かってない状態なんだ。お医者さんも、強い薬を使っているせいだから、と言うし。呼んでも話しかけても、答えるどころか目すら合わせなくて。もう、生きているのかどうか分からない状態になっちゃって」
「そう。それは辛いわね」
「だから、思い入れのある場所に連れて行ったら、もしかすると意識がはっきりと戻るかも知れないって、一種の賭けなんだって言ってた。だから、もうこれが最後なのかも知れない」
「意識が戻るかも知れない?」
「ううん、これで駄目なら一切の治療を止めるってこと。楽になる最後の強い薬を使って、経過を見守るだけになるんだって」
事実上の死、という事なのか。
その言葉を口に出来るコウタは、もう覚悟を決めてしまったのだろう。いや、そうせざるを得ない状況に追い込まれたのかも知れない。気持ちの整理も悠長に出来るだけの時間が無いのだ。
「ま、仕方ないよ。今まで持ったのも奇跡的なんだそうだし。最後に元気な所も見られたし、もう充分だよ」
「でも、悲しいでしょう」
「それでも泣かないのが、お父さんの教えだから。もう何ともないよ」
多分、それは強がりだ。本当に何ともないなら、わざわざ口に出して言ったりはしないのだから。
私はぽつりと曖昧な一言だけ返した。うっかり口を開くと、コウタの胸中に深く踏み込みかねない事を言ってしまいそうだからだ。
「思えば、碧に会ってからだね。お父さんが一旦元気になったのって。何か縁があったのかも」
「ただの偶然よ」
「そうかも知れない。でもさ、ちょっとだけ思ったんだ」
「何を?」
「碧って何処か浮き世離れしてる所があるから、もしかして実は神様の使いで、僕が品行方正な所を見せたら願いを一つ叶えてくれるかもって」
そんな夢見物語、本気で言っているのだろうか?
少し困惑した私は、そっとコウタの表情を盗み見た。コウタは自嘲気味に口元を歪めていて、どんな心境で言ったのかは明白だった。だから、それ以上は見ない事にした。
「私はそんなものじゃないわ。願われても、何も出来ない」
「分かってるよ。ただ、そんな空想をしたくなるくらいなんだ。もう、どうにもならないのは僕にだって分かってるから」
空想なんかしたって何も変わらないのに。そんな辛辣な言葉はとても口には出来ない。病床の父親にどれたけ悩んで苦しんだのかは、ほんの少しだけど私も分かっている。だから私が思うのは、コウタがもう苦しまないで欲しい事だけだ。
「ねえ、もしも私が本当に願いを叶えられるとしたら、何てお願いする?」
「何だよ、急に。出来ないって自分で言ったじゃないか」
「例え話よ」
「例え、ね。そうだなあ」
コウタは空を仰いでしばし考え込む。私にはコウタの願いそうな事は分かっていた。もし本当にそれが叶えば、コウタはもうこんな風に苦しまなくても済むのだから。
しかし、
「新しいお母さんと仲良く出来ますように、かな」
コウタが口にしたのは、予想外の返答だった。
「何故そうなの? あまり好きじゃないって言ってたのに」
「そうだけどさ。僕が今のままだと、お父さんが安心出来ないだろうから。僕はもうお父さんには心配や手間を掛けさせたくないんだ。それに、今のお母さんとこのまま縁遠くしておくのは良くないと思うから」
病気を治してとか、もっと長生きさせてとか、そういうものではないなんて。
父親の病気はもうどうでもいいのか、そもそもそういう段階は通り越してしまっているのか、私は困惑しながら本気の答えなのかとあれこれ疑ってしまった。だけど良く考えてみると、コウタは一番現実的な希望を挙げているだけなのだと気付く。今際の際から奇跡を起こす事など有り得ないから、初めから望んだりはしないのだ。それよりも、残された者がどうすべきか、コウタはそんな先の事を前向きに考えている。そして、きっとそれが父親のためにもなるのだろう。
前向きに考えたとしても、コウタを取り巻く辛い状況に変わりはない。私は少しでも苦難を取り除いてやりたいと思うのだけれど、コウタはその苦難を受け入れる覚悟を決めているのかも知れない。だったら、それが唯一のコウタの願いなら叶えてやりたい、そう私は思った。