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翌朝、コウタは私が思っていたよりもずっと早い時間に現れた。急いで来たのか喉をごろごろ鳴らすほど息を切らせていて、額にも大粒の汗を幾つも浮かべている。そして、心なしかいつもより表情が晴れやかだった。
そして、
「ねえ、ちょっと聞いてよ!」
開口一番、コウタは手の届くほど近い距離にも関わらず大きな声を放った。随分と興奮しているように思う。あまりに大きな声に驚く私は、反射的にコウタの顔をじっと見返してしまった。
「どうしたの?」
「実はさ、夕べ。ほら、前にも話したよね。うちの頭にくる親類の連中。お父さんがね、とうとう追い出したんだよ」
「追い出した?」
確かコウタの父親は、重病で余命幾許もなかったのではないだろうか。
「そうなんだ。お父さんが最近調子が良くなってきたのもあるんだけど、そのおかげで前の強気さも戻って来てね。連中、その辺りを読めないで遺書の事に口出ししちゃったから、お父さんが激怒してさ。いやあ、凄かったよ。いきなり床の間の刀を抜いちゃってさ、凄い形相で出て行けって怒鳴りつけるんだもの。それで連中慌ててさ、夜も遅いってのに隣町に宿を取って逃げてったよ」
愉快痛快と言わんばかりの満面の笑み。コウタが嬉しいと何となく私も嬉しくなって来る。
そう言えば、昨夜にこの橋の上を何台も車が通り過ぎて行った。多分あれが、コウタの親戚の車だったのだろう。
「あれ? 碧も笑うなんて珍しいね。と言うか、初めてじゃない?」
突然コウタにそんな事を指摘され、思わず私は自分で自分の頬を触ってみた。しかし、指先では自分の表情は分からない。
「私、笑ってるのかしら?」
「うん。控えめだけど、凄く可愛いと思うよ」
可愛い。私には良く分からない漠然とした言葉だった。だけどコウタが笑顔で言うのだから、きっと良い意味に違いないだろう。
そんな浮かれ調子で終始話し続けるコウタに、私は一つ一つ相槌を打ちながら静かに聞いていた。コウタは早口でまくし立てるように話すので、話の内容はほとんど理解はしていない。ただ、あまりにコウタが楽しそうなので、理解が追い付かなくてもつまらないとは思わなかった。
やがて、話疲れたのかコウタは唐突に口数が少なくなり、しきりにあくびを繰り返すようになった。昨夜はあんな事があって興奮して寝付けなかったらしい。程なくコウタは、風が吹き込まず日の光が良く当たる所へ移って、本格的に昼寝を始めた。
眠っているコウタの顔は、何とも無邪気で楽しそうだった。眠るという事は良く分からない私だが、実に気分が良いことなのだと見た目ではそう感じた。先程コウタの言った可愛いという言葉は、こういった姿に当てはまるのだろう、などと勝手な解釈をし、ひたすらじっとコウタの顔を眺めながら目を覚ますのを待った。
やがて太陽が中天から西へ傾き始める。人間の一日の区切りで、丁度折り返したところである。コウタは相変わらず眠ったままで、私も何するでもなくその姿を眺めていた。
今日の碧橋は車通りがいつもより少ない。そのお陰で随分と静かで、コウタが眠るには最適だと思う。だけど、コウタとはもう少し話をしたいとも少なからず思っていた。
早く目を覚まさないか。
そんな期待を込めた視線をコウタの寝顔へ注いでいた、その時だった。
不意に私の胸中に、それが去来した。
「あっ……」
思わず漏らした声が先か、それとも涙が先か。
それとは、他に呼びようがない、言葉では言い表し難い感覚である。痛いとか辛いとか、そういった触りではなく、満月を見上げると思わず目が眩んでしまうような、反射的で機能然としたものである。
その感覚はあっという間に私を支配する。涙は次から次へとぼろぼろこぼれ落ち、裂けるような苦しみが胸から喉へ張り詰める。それから少しでも逃れるように、私は押し殺した声をゆっくり少しずつ吐き出した。
「……碧?」
やがて、この声に気付いたのだろう、コウタがゆっくり起こした頭で何事かを察知すると、イナゴのような勢いで飛び起きた。
「ど、どうしたの?」
こんな私の姿を見たコウタが動揺している。それは私には予想し得た反応である。私とコウタで泣く理由はまるで異なるのだから。
「ううん、多分これ、いつものだから……」
そう答える間も、涙が次から次へと溢れて止まらなかった。まるで呼吸をするように、苦しげな嗚咽も続いて漏れ出す。私の姿に動揺するコウタに申し訳なく思いつつ、自分で自分を止めようとする事は出来なかった。止められるのならもっと早くからしているし、コウタのいない時に済ませようとするだろう。これは自分でもどうする事も出来ない役割、人間で言えば発作のようなものだ。
そうか。
私はふと、たまたま浮かんだ発作という言葉に触発され、唐突に自分の役目の意味が何なのか分かったような気がした。だけどそれは、果たしてコウタに話して良いものなのだろうか。悩むという事はするべきではない、とした方が良いだろうが。