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「君のお名前は何て言うの?」
 未だ綻ぶ口元を隠しもせず、そう問うてみる。するとその子は、やや拗ねた表情を覗かせつつも、当初よりもはっきりした口調で答えた。
「コウタ。東京から来たんだ」
「東京? 都会かしら」
「そうだよ。知らない? 日本の首都だよ。そこの浅草ってとこ」
「私は良くは分からないわ。此処から出た事がないから」
「ふうん、そうなんだ」
 コウタと名乗ったその子は、確かに見れば見るほどこの町の人間とは様相が違っている。身なりの良さや韻の強い独特の話し方は、おそらく出身が良家なのだろう。
「この町には何しに来たの? 遊ぶ場所でも探しているのかしら?」
「別に、そんなんじゃないよ。僕はそもそも来たくなかったんだ。何も無くて退屈だからね」
「そう、東京に戻りたいのね。じゃあ戻ればいいんじゃないの」
「そうはいかないんだよ。今は」
「今は?」
 何か戻れない事情があるのか。それこそが、わざわざ東京からこの町に来た理由なのだろう。
 この話をするコウタは、どこと無く不機嫌そうに見えた。あまり触れられて欲しくない話題なのか、答える時は必ず視線を外している。これ以上無闇に触れる必要もないだろう、私はそれ以上の言葉を続けるのは避けた。だが、避けるのは良いが、私には次の会話が思いつかなかった。人と会話をする事など、私にはまず有り得ない出来事であるせいだ。話の組み立て方がよく分からない。
「どうかしたの、急に黙って」
「コウタが話したくなさそうだから。黙ってる方がいいでしょ?」
「なんか当て付けがましく聞こえるけど。こういう状況で意図的に黙るのって、凄く空気がぎくしゃくすると思わない?」
「私、そういう事は良く分からないの。人と話さないから」
「そうなんだ。まあ、この町って全然人が居ないみたいだからね」
 実際の所は、人が居ないなんて事はない。うんざりするほど人は行き交っているのは、毎日この橋の上を通る音で想像がつく。おそらく、コウタの居た東京はもっと人が多いからそう感じてしまうのだろう。
「話し相手が居ないと寂しいのかしら?」
「寂しいというよりも退屈だね。この町には娯楽が無いから」
「そうなの。私は退屈だと思った事は無いのだけれど」
「そりゃ、この町にずっと住んでるからでしょう? 慣れちゃってるんだよ、こういう所に」
「そうね、そうかも知れないわ」
 この状況に慣れているから退屈はしない、コウタのその意見は自分には違うように思えた。状況に慣れているのではなく、私は単に退屈と感じる事が無いだけなのだ。自分のするべき事が明確になっていれば、他は何も必要は無い。だから退屈する状況が起こらない。多分そういう事のはずだと思うが、コウタに指摘されるまではそもそも意識した事すらも無かった。もしかすると、これから意識するせいで認識が変わって来るかもしれない。
「あ、そうだ。ところで、君は名前は何て言うの?」
「名前?」
「そう、名前」
「私の?」
「他に誰も居ないよ。名前が無いなんて事はないでしょう」
 私は返答に困った。コウタの言うそのまさかで、私には名前など無いのだ。私の役割は一人でするものだから、名前というものが不要なのである。
 私に名前は無い。素直にそう答えようと思ったが、口にしかけた寸前で躊躇ってしまった。その答えはきっと、コウタを訝しがらせるものだと思うからだ。
「どうしたの? まさか、名前忘れちゃったり?」
 コウタはまだ冗談めいているが、それもあまり長くは続かないだろう。やはり名前を言わなければならないのだろうか。けれど、私にはそういうものは付いていない。付いていないものは教えられないのだ。
 どう答えたものやら、そう困窮していると、ふと私にある考えが閃いた。
「碧」
「みどり? 碧って名前なんだ」
「そう、碧」
「変わってる名前だね。でも、可愛いと思うよ」
 私の名前は碧。そう答えると、コウタは疑いもせずに笑顔を浮かべた。私はその反応を見て、良かった、と胸を撫で下ろした。私が居るこの橋、名前は碧橋と付けられているので、それをそのまま引用しただけなのだが、どうやら人名でもあまり違和感のない語句だったようである。
 これで一先ずは凌げただろう。そう安堵するのも束の間、私の胸中にはどこからともなく疑問が沸き起こって来た。何故私はコウタに取り繕い、そしてその成功に安堵したのか。それは今までにない心境である。