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唐突に意識が戻るや否や、まるで自分が寝台に寝かされていたのを知っていたかのように、俺は布団を跳ね除けるようにして飛び起きた。
「キャッ!?」
そして、すぐ側から聞こえてきた驚きの悲鳴。それは、俺の方を目を丸くして見ているルイだった。
「サイファーさん、良かった……。気が付いたんですね」
「あ、ああ。心配かけたようだな。ここは大使館の中か?」
「はい、医務室です。サイファーさんが戻って来てから、もう大分経ちましたよ。日も暮れてしまいましたし」
どうやら俺は、ノルベルト大使に気絶させられ、そのまま今までずっと寝こけていたようである。殴られて気を失った事は初めてではないが、これほど長く気を失ったのは初めてだと思う。多分、それだけノルベルト大使の寝かしつけが見事だったのだろう。あの時は、我ながら恥ずかしくなるほどの正論を吐いて気勢を上げたが、実力差は大人と子供程もあったらしい。正直、俺がこうして生きているのも本当にノルベルト大使の胸三寸で、たまたま生かされただけなのだろう。
「怪我は如何ですか? 痛みはありますか? 先生のお話では、指以外は特に異常は見当たらないそうですけれど」
そう言われ、ゆっくり右手を出して様子を伺う。親指から中指にかけては、指先が包帯で固められている。剥がされた爪への処置だろう。そして薬指と小指には、小さな添え木が当てられている。こちらは折られたため、ピンと真っ直ぐ伸ばした状態で固められている。その不自然な形のせいで、中指を動かそうとすると筋が突っ張って痛む感じがあった。当分はあまり右手は使えないようである。
「まあ、この程度で済んだなら儲けものだ。これくらい、すぐに治るさ」
「すみません、私のせいです。そもそも私がサイファーさんに頼んだりしなければ、こんな怪我をしてしまうような事にならずに済んだのに……」
「君のせいじゃない。気に病む必要はないさ。そういう仕事だ」
「でも私……、私のせいでサイファーさんまで取り返しの付かない事になったらって思うと……」
ルイは見る間に両目一杯に涙をため、ボロボロと泣き崩れてしまった。
参った。俺は思わず表情を引き攣らせそうになった。女子供を慰める事は、経験も無ければ適性もない。やはり不意にこういう状況に遭遇してしまうと、どうしても体が強張って動かなくなってしまう。喉元に刃物を突き付けられるのと同じくらい、緊張してしまうのだ。
今度はどうやってルイをあしらおうか、このまま放ったらかしにする訳にもいくまい。そんな事で頭を悩ませていた時だった。
「なるほど、だから君は未だに独身なのだね」
突然、背中側からルイではない別の声を掛けられ、俺は驚きで体を震わせ慌てて振り返った。
「やあ。お互い、無事で何よりだね」
今は不在のサンディアのデスクに、フェルナン大使がワイングラスを片手に着いていた。フェルナン大使は乾杯の音頭を取るかのようにグラスを掲げると、中身をスッと一息に飲み干してしまう。そして、デスクに置いていたカラフェから、更にグラスへ注ぎ足した。
「……いらっしゃったのですか」
「ああ、ちょっとルイちゃんとね、今後の事について話をしていたんだよ。それにしても、君は典型的な仕事人間なのだね。女遊びはしてこなかったのかい?」
「私は、そういった事には無関心な人間でしたから」
「良くないよ、そういうの。そういう堅物に限って、ハニートラップなんかでころっといっちゃうんだから。だから外交官は、妻帯して一人前と呼ばれるのさ」
「御忠告、感謝致します」
相変わらず飄々とした振る舞いで、一国の大使らしい趣や威厳が感じられない人物である。このアドバイスも、真に慮っての事なのか、それともからかっているだけなのか、俄には判別し難いものがある。
「ところで、サイファー君。女の子が泣いている時はね、肩の一つくらい抱いてあげるものなんだよ。女の子は普通、どうでもいい人の前では絶対に泣いたりしないものなんだから。分かる? 君はもうちょっと、そういう機微に聡くならないとね。ほら」
急かすような口調で、フェルナン大使が慰めを強要してくる。確かにそういう事が必要かも知れないが、どうにも自分の柄ではない。そう思ったが、取り敢えずうつむいたままのルイを、そっと抱き寄せてみた。すると、ルイは今の会話を聞いていたのかいないのか、ともかくすがるように俺の方へ抱きついて来た。フェルナン大使の言う通りになるのは癪だが、ともかく少しでも慰めになればそれで良いだろう。
「ノルベルト大使は、その後どうなったのでしょうか?」
「ああ、見事に雲隠れだよ。一応、南ラングリス政府も捜索はしているようだけど、そう簡単に見つかる相手では無さそうだなあ。あ、言っておくけど、私のせいではないよ? 私は腕っ節は全く駄目なんだからね」
確かに、俺が手も足も出なかった相手を、フェルナン大使が一人でどうにか出来るはずがない。あの場は黙って見過ごすのが正解だっただろう。
「では、彼女の件ですが。今後どうするおつもりでしょうか? 南ラングリス政府に、ちょっとした誤解で指名手配されているのですが」
「うん、そうだったらしいね。実は困ったことに、正攻法ではどうにもならない事態でさ」
さも面倒そうな表情でグラスを傾けると、もう片方の手でデスクに並べている小皿からオリーブの塩漬けを一つ摘み、口へ放り込む。フェルナン大使の左手は包帯で巻かれていたが、傷の程度は生活に影響する程ではなかったのだろう。案外うまく刺し貫いたのかも知れない。
「まず、南ラングリスなんだけどね。所在の確認をしたらさ、ルイちゃんも妹のレイちゃんも、どちらも死亡していますの一点張り。いや、本人がここに居るって言ったんだけどね。どうやら例の暗殺事件、解決しないままずっと燻って来ちゃったでしょ? その事で糾弾されてた閣僚もいい加減限界みたいでね。今回のノルベルト君の事件を良い事に、このまま実行犯や関係者を全員死亡にして終わったことにするつもりなんだよ。ついさっきまで指名手配してた癖にね」
「それはつまり、ルイの国籍は南ラングリスでは認められないという事ですか?」
「正確に言えば、死んだから除籍という事だね。生存が確認されれば戸籍回復法に基いて復活もあり得るんだけど、まあ法務相が認めないだろうさ。経緯が経緯だけにね」
せっかくルイの出身国が南ラングリスだと特定したというのに。まさか、国から国籍を拒絶されてしまう事になるなんて。
俺は、これまでの苦労が水の泡に消えた、という落胆の念を隠せなかった。文字通り命懸けで取り組んだ仕事で、ルイの生活のためにも何としても成し遂げてやりたかったのだが。まさかそれがこんな形で阻まれるとは、思いも寄らなかった結末だ。
「一応、北ラングリスにも打診を考えてみたが、こちらはもっと無理だろうね。なんせ、彼女が暗殺事件と北ラングリス政府を結ぶ最後の接点だから。わざわざ死にに行くようなものだよ」
「そうですね……。それは文字通り、十分身に沁みていますから」
中にはロイドのように協力的な人物も居るだろうが、それが必ずしも安全である保証はなく、しかも普通の生活どころか政治目的に利用される事は目に見えている。とても幸せな生活が送れるとは言えないだろう。
「今のルイちゃんはね、国籍が無い状態なんだ。国の庇護下に置かれてないという事だね。だから、どこにも入国出来ないし、国家の保証も受けられない。サイファー君の仕事は、彼女を出身国へ送還する事だったね。残念だけど、こういう事情だから。それはどうやっても無理になったよ」
「それは分かります。しかし、ルイは今後どうすれば良いのでしょう? 国籍が無いとなると、行き場所もありません」
「セディアランドも、いつまでも国籍の無い人間を宙ぶらりんのまま置いておく訳にはいかないからね。それで、手っ取り早い解決法を思い付いたんだよ」
「手っ取り早い? 何ですか、それは」
するとフェルナン大使は、満面の笑顔ですかさず答えた。
「君達、結婚しなさい」