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こちらが答えるよりも早く、右腕が高く捻り上げられた。腕は、関節の稼働域を越える寸前の、鋭い痛みの走る角度で固定される。俺は思わず声を上げそうになり、奥歯を強く噛み締める。
「さて、サイファー君。考え直してはくれんかね? 私の要求など大したものではないだろう。意固地になる理由は無いはずではないかね?」
「……結論は変わりません。私は、犯罪者との取引には応じない」
「ほう、そうかね」
ノルベルト大使が、俺を組み伏せる男達に視線を送る。その直後だった。
「がっ!?」
突然、捻り上げられた右腕の親指に、鋭い痛みが強く走った。指先が冷たくなったと感じた直後、一転して燃えるように熱く痛み出した。その指から下へ向かって、温い滴りが伝っていくのが分かった。爪を剥がされた。痛みを堪えながら、それだけを察した。
「いきなり剥がすだけ、まだ温情を掛けていると思いたまえ。さて、残りの爪はどうするか、意見を聞かせてくれるか」
「大使らしくもない、まるで幼稚なやり方だ」
「確かにそうだね。しかし、これが確実な方法でもあるのは、経験則から知っているのだよ。命惜しさに意見を曲げた者など、これまで幾人も見てきたからね」
そうしている内に、今度は人差し指から同じように衝撃が走った。親指と違い、空気が触れただけでも酷く痛む事を初めて知ることになった。
「君が彼女に固執する理由は何かな? 愛情でもあるのかね。しかし、たった数日で我が身と引き換えにしてもいいと思うまでには至らないだろう。君が意地を張る理由は、そこまで大事な事かね」
「ひとえに、人としての良心の問題だ」
「自分を傷付ける事は、決して良心ではないがね」
今度は中指だった。痛みは人差し指とさして変わらなかったが、血はあまり出ていないように感じたた。鋭過ぎる痛みに、痛覚が麻痺し始めているのかも知れない。
「時間の無駄だな。こんな事をしたところで、態度を硬化するだけだ。そういう人種もいる事を知った方がいい」
「おや、口数が増えて来たね。余裕もそろそろ無くなってくる頃だ。君は折れて構わないのだよ。重責のある立場ではないのだ、誰も責めやしない。そもそも君は、セディアランドに対して何らかの損害を与えた訳ではなく、ただ無難に事を収めたのだ。その結果さえあれば問題にはならんよ」
「繰り返すが、あなたとこれ以上取引する事はない。速やかに大使の身柄を解放して貰おう」
「まだ自分よりも、大使閣下の身柄を慮るかね。それだけでも、君が素晴らしい人材である事が分かるよ。私の部下にも欲しいくらいだ。そんな明晰な君なら、無駄な意地を張っている事ぐらい分かるだろう?」
「無駄ではない。一国を代表する者ならば、犯罪者には決して屈しない、その姿勢を示す事に意味がある」
「なるほど、それは正解だ。しかしね、」
次は薬指か。次に痛みの走るであろう場所を意識する。だが、
「あっ!」
衝撃は小指から、それも根元から走った。小指を折られたのだ。想定外の不意打ちに、思わず不覚の声を上げてしまった。こうやって、心を折りにくるのだろう。
「君の方こそ、無理を通すために手段を選ばない人種がいる事を理解し給え。私としては、大使閣下の身柄を質に、第三国へ亡命しても構わんのだよ。彼女の処断にしても、部下一人残せば済む事なのだよ」
「嘘だな。口封じが目的なら、既にそうしている。それが出来ない現状が、セディアランドとは事を構えたくない慎重さが窺えるな。結局のところ、言質が欲しいだけだ。自らの意志で言わせた、出来るだけ確かな言葉が。しかし、そんな事をしても意味はない。俺はそもそも監部の人間だ。俺が根負けして保証したからと言って、実際に政府が履行する理由にはならない。むしろ、何故このような異例の事態になったか、厳しい査察が入るだけだ」
「そうか。なら、君などさっさと処分してしまい、再度大使閣下と交渉させて貰おうか。君がここで死んでくれれば、我々が脅しではない証左になるだろう」
薬指が拉がれる感覚が伝わって来たが、もはや痛みが入り混じっていて、正確に分からなかった。捻り上げられているところから先が、自分の物ではないようにすら感じる。力ずくで振り解こうにも、自分の腕がそれだけの強力を発するビジョンが浮かばない。
一体ノルベルト大使は、何を狙っているのだろうか。監部の人間である俺を脅して亡命の約束を政府と取り付けるなど、本気で画策しているとはとても思えない。俺がここへ来たのは直々に指名されたからであり、セディアランドを代表しているつもりは無く、そもそもそれは本国に認められるはずもない事だ。
おそらく、俺を痛めつける事で大使に揺さぶりをかけるのが本当の目的だろう。俺が厳格な人間であればあるほど、その効果は強いに違いない。ノルベルト大使は、あくまでフェルナン大使が交渉の相手であり、俺は彼を折れされる交渉の道具でしかないのだ。自国民が傷付けられれば、流石に多少の譲歩は引き出せるかもしれない。となると生贄は、外交官ではない部外者である方が都合が良いのだろう。
「さて、フェルナン閣下。これから前途ある優秀な若者の命が摘まれる訳だが。返答は変わらないかね?」
ノルベルト大使は勝ち誇ったかのような表情を、憮然と佇むフェルナン大使へ差し向けた。フェルナン大使は特に表情もなく、俺の方を漫然と静観している。色々と思惑を錯綜させている、そんな風に俺には見えた。
しばらく沈黙していたフェルナン大使は、おもむろに手を差し出すと、パンと小さく拍子を打った。
「あー、キミ。サイファー君と言ったか。すまんが、これから君を見捨てる訳だが。構わんかね?」
「ええ。私は家族も居ない、独り者です。お気遣いなく」
何の表情もない質問だったが、おそらく悩んだ末の結論だろう。俺は淀みなく返答をした。しかし、
「ほう、君ぐらいの男が未婚とは珍しいね。外交官は妻帯して一人前と呼ばれるくらいなのだが」
何故か、すぐに不思議そうな表情を浮かべ小首を傾げると、そのまま視線をノルベルト大使へ向けた。妙な調子だ、俺はフェルナン大使の挙動に怪訝なものを感じる。これまでの素振りといい、相当な変わり者なのだろうか。
「ところで、ノルベルト君。これまでの君の挙動から察するに、セディアランドと決定的に事を構える事態だけは避けたいようだが。それで私には危害を加えない訳だね」
「勿論。私が本当に欲しいのは、あなたからの言質ですから」
「そうか。つまり、私自身が質になる訳だね。それなら」
その時だった。
おもむろにフェルナン大使が左手を掲げる。そこには、装飾の施した短剣が握られていた。大使の両脇の男達は、予想外の事だったのか、すぐに自分の体を弄った。どうやらその短刀は、白薔薇の装飾剣らしい。
だが、その様を見ていたノルベルト大使は、悠然とした姿勢を崩さぬままだった。さほども慌てるような事態ではないのだろう。
「意外と閣下は、手癖が宜しくないようだ。しかし、まさかそれ一つで我々と渡り合うつもりかね?」
「そのまさかだよ」
あっさりと返答した、その直後。フェルナン大使は装飾剣を逆手に持つと、何の躊躇いもなく振り下ろしてしまった。髭を剃った時のような、柔らかいものを擦る音が室内に響き渡る。同時に、組み伏せられていたテーブルが一度だけ小さく震えた。
「な……」
最初に声を上げたのは、ノルベルト大使だった。そして、俺も同じような声を途切れがちに上げ、その光景に我が目を疑っていた。
フェルナン大使が振り下ろした短剣の刃先は、なんとテーブルの上に置かれた、フェルナン大使自身の右手の甲を貫いていたのだ。
苦痛に顔を歪めつつ、フェルナン大使はゆっくりと装飾剣を抜き、唖然としている背後の男へ返した。そしてノルベルト大使を向き直り、にやりと不敵な笑みを浮かべて見せた。
「さあ、大変だ。ノルベルト君、これで君はセディアランドを敵に回してしまったよ?」