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 大使館を出ると、すぐ側に堂々と馬車が止まっていて、俺はそこへ促された。乗り込むと早速目隠しをされ、馬車は何処かへ走り出した。今更隠しても仕方がないだろうと思いはしたが、彼もノルベルト大使の指示を忠実に守っているだけだろう。
「ところで、当方の大使をどのように拉致したのです? 随行員も居たはずですが」
「あなた方の時と同じ手を使っただけですよ。堂々としていれば、案外疑われぬものです」
 つまり、迎えと称して馬車を乗り付けたのだろう。いちいち御者の顔など憶えてはいないし、仮に見慣れぬ顔だからと言っても、いちいち気に留めるような事でもない。大胆だがうまいやり口だ、と改めてそう思う。
「随行員の方々も無事ですよ。大使とは別な場所に居られますが、ある時まで経てば自然と解放される手筈になっています」
「流石に一線を越えるつもりはなさそうだ。セディアランドを敵に回しては意味がないだろうしな」
「閣下はあくまで、貴国との取引を所望されているだけです。手荒な真似をするはずがありません」
「既に行儀が良いとは思えないんだがな。まあ、取引がしたいというなら応じるさ。こちらに利のある事ならば」
 まるで自分らが被害者であると言わんばかりの、この一方的な態度には既に辟易し始めている。本音では取引など応じたくはないが、やはりここは大使の身の安全を最優先にしなくてはならない。場合によっては、不本意な取引も止む無しとなるだろう。だが、その状況下で自分がまたしても意地を張ってしまわないか、それがいささか不安だった。
 目隠しのため時間の感覚もないが、おそらく三十分は走っただろうか。程なく馬車が止まり、俺は目隠しを外され降車を促される。
 到着したのは、郊外らしい閑散とした山間の別荘の前だった。あの街からここまでは遠いのか近いのか、木々が鬱蒼として景色が分からないため、判別は付かなかった。
「さあ、どうぞ。閣下がお待ちです」
 そう促され、俺は館の中へ入っていく。
 玄関ホールは広い吹き抜けの構造で、見上げればガラス細工の大きな照明が吊されていた。昔の貴族辺りの所有物が払い下げられたのだろうか。とても一般の人間が所有出来るような代物ではない。
「おお、これはこれは。久しいですね」
 吹き抜けになった上階の方から、やけに親しげな声が聞こえてきた。見上げるとそこは、タイを外した緩い服装のノルベルト大使の姿があった。今や政府に手配されている身だが、相変わらず余裕に満ちた素振りである。
「その節は、と言いたい所ですが。そんな心境にはなれませんね」
「そう突っかかるものではないよ。私は君に、同行を強要した覚えはないんだがね」
「私の自己責任とでも言いたげですね。あのような裏取引に使われると知っていれば、そもそも話には乗らなかった。それこそ不本意な捉えられ方だ」
「まあ、積もる話もあるだろうから、いつまでも立ち話ともいくまい。さ、こちらへ上がって来たまえ」
 自らの陣地へ誘い込もうとしている。ノルベルト大使の仕草にそう直感が働いた。だが、ここで断っても話が進まない。俺は腹を決めて階段を登っていった。
「そう緊張せずとも構わんよ。交渉役の君に手出しするつもりはないからね」
「それよりも、我が国の大使はどうしているのです?」
「無論、丁重にお預かりしているよ。今から引き合わせてあげよう。彼にも交渉の場に同席して貰うからね」
 ノルベルト大使の後を付いて行くと、やがて建物の奥の広い食堂へ入っていった。おそらく、十数人は会席出来るだろう。厚く長いクラッシックなテーブルにずらりと椅子が並び、その一番奥には一際豪奢な椅子がこちらを向いている。周囲の壁紙は何らかの宗教画を模写したもののようで、窓から差し込む光の加減で教会のような独特の雰囲気を作り出している。館の前の持ち主の趣味だろうか。
 そのテーブルの一画には、黒いスーツ姿の男に両脇を挟まれた、一人の壮年男性の姿があった。見たところ拘束されているようでは無かったが、両脇の男達は明らかに彼の挙動に警戒をしている。
「さあ、彼の向かいの席にでも掛けたまえ」
 ノルベルト大使に促され、俺は周囲の気配に慎重に気を配りつつ、彼の向かい席へ歩き腰を下ろした。スーツの男達は、じっと俺の挙動を瞬きもせず注視している。俺とは違い、警護の専門訓練を受けた人間のようである。
「ふむ、君が私を救助しに来てくれたのかね?」
「ええ。初めまして、閣下。中央監部のサイファーと申します」
「監部? ほう、これはまた妙な取り合わせだね」
 そう言って彼は、さも愉快そうに微笑んだ。この状況で随分な余裕だ、俺は苦笑いを浮かべそうになった。
 初顔合わせではあるが、どうやら彼がセディアランドの大使に違いないようである。居場所は知らされないだろうと思っていただけに、あっさりと会えたのはいささか拍子抜けである。この警護の人間が絶対に逃がさない自信があるから、あえて引き合わせたのだろうか。それとも、彼との交渉に既に失敗していて、その説得の材料に俺は使われているのか。どちらにせよ、大使のこの緊張感の無さは理解に苦しむ。元々そういう性格なのだろうか、若しくは置かれた状況を正確に知らされていないかだ。
「さて、役者も揃った事だし、始めるとしようか」
 当然のように、ノルベルト大使は奥の主賓席へ腰を下ろした。まるで、何かを祝う席でのような振る舞いである。根拠があるのか無いのか、それも分からない俺には、ノルベルト大使の余裕に満ちた振る舞いはとても不気味に見えた。