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 クレイグと連れ立って応接室へ入る。そこでソファに腰を下ろして待っていたのは、スーツ姿の青年だった。
 青年は入室してきた我々に対し、きちんと立ち上がって一礼し、クレイグが再び着席を促すまで直立していた。今となっては高慢さが見え隠れしていたように思えるノルベルト大使だが、その随行員とは思えない礼儀正しさと感じた。
「初めにですが。こちらはセディアランド中央監部のサイファー殿です。ノルベルト大使の件での御訪問と思い、こちらに同席させて頂きます。よろしいですね?」
「はい、承知しております。閣下からもその件はお伺いしておりますので」
 そう初めから分かっていたような素振りで返答する青年。その顔をよくよく見てみると、何処かで見覚えのあるものだった。そう、確かあれはセディアランドから出立する際に、庁舎まで馬車で迎えに来た青年だ。
 これはつまり、あの船が北ラングリスの港へ着いた件はノルベルト大使が関わっていたと解釈して構わないという事なのだろう。
「それでは要件をお伺い致しましょう」
「先に、あの書面はお読みになられたでしょうか?」
「いえ、まだです。あいにく、現在当方の大使は不在でして。お戻りになるまで私がお預かりしています」
「それでは、先にそれをお読みになって下さい。読むのは貴館の代表者で構わないと、閣下は仰せです」
「しかし通常は、代表者となればそれこそ大使でなければ」
「大使の留守を預かる方であれば、どなたでも構いません。セディアランド大使殿が御不在であるのは、既に承知の上ですから」
 青年のその物言いに、俺は引っ掛かるものがあった。それはまるで、初めから大使が不在である事を知っていたかのように聞こえるのだ。クレイグによれば、大使と連絡が付かなくなる事は前代未聞だという。まるでそれを図ったかのようなタイミングだが、果たしてただの偶然だろうか。
「そういう事でしたら、今ここで拝見させて頂きます」
 再度確認した上で、クレイグは便箋を取り出すと、封を切って中から一枚の書面を広げた。その紙も四方に凝った紋様が施されており、かなり上等なものである事が窺える。外交官の経費とはそれほど潤沢なのだろうか、そんな事を思った。
「これは……」
 早速文面を読み始めたクレイグだったが、その表情は程なく一変する。
「どういう事でしょうか? 悪ふざけにしては、いささか度が過ぎていますが」
「そのままですよ。そして内容に関して、全て事実に相違ありません」
 読み終えたクレイグは、いつになく怒気を孕んだ強い口調で青年を詰問する。だが青年は、驚く事も焦る事もなく、まるで初めからそうなる事を見越していたかのように落ち着いた表情でそれを受けていた。
「あの、一体何が?」
「サイファーさんも御覧になって下さい。構いませんよね? 何せサイファーさんを名指しにしているのですから」
 俺がこの書面に名指しで?
 クレイグから書面を受け取り、それは一体どういう事なのかすぐさま内容を確かめる。
 豪奢な紙に比べ、その文面は要件だけが認められた簡素なものだった。虚礼を排したと取れなくもないが、何処か焦りのような物も感じさせた。
 その書面には、確かにクレイグが怒るだけの事が書かれていた。ノルベルト大使の亡命を、セディアランドが無条件で受け入れる事。また、それらの交渉のためにセディアランド大使の身柄を引き取っている事。そして驚いたのが、何故か随行役に俺と彼女が指名されている事だ。
 出入りする非常勤スタッフ辺りが情報の出所だろう。いちいち締め上げて吐かせるまでもない。それよりも問題は、もっと別な所だ。
「これは……事実上、大使を人質に取っているようなものでは?」
「表現を変えただけで、まさにその通りです」
「何故私が指名されているのでしょうか。私は外交とは関係のない人間です」
「大使と彼女の身柄を交換したいのでしょう。サイファーさんならば、彼女も素直に付いて来ると思っているのかも知れません。もしくは、外交畑ではないサイファーさんなら口先で幾らでも言い包められる、そう舐めきっているんですよ」
 それなら妥当な人選かも知れない。だが、あまりに要求が無体過ぎる。亡命を受け入れろ、身柄を引き渡せ、従わねば大使の安全は保証しかねない。これではまるで、テロか山賊辺りの手口である。仮にも一国の大使までになった人間のする事ではない。むしろ、セディアランドが強硬姿勢を取るのに十分な理由を与えるという、あまり賢いとは言えない手段である。
 本当に通ると思っているのか、それとも他に何か狙いがあるのか。
 これは対応に悩む要件だ。クレイグはどんな判断をするのだろうか。そんな事を考えていた時だった。
 おもむろに動いたと思ったクレイグは部屋の隅に向かうと、そこの壁にかけてあったサーベルを手に取って抜き放った。
「結論は考えるまでもありません。我がセディアランドは、犯罪者との交渉には一切応じない。そして、不逞の輩は法の裁きを待つまでもない」
 見る間に殺気立ったクレイグは、つかつかと足早に青年へ向かっていった。ただならぬその様子は、本気でそのサーベルを繰り出しかねない凄みがあった。けれど、そんなクレイグを前に青年は、悠然と座ったまま、うすら笑みさえ浮かべていた。本気で殺されるとは思っていないのか、はたまた身を守る算段があるのか。何にせよ大使館での刃傷沙汰はまずい。俺は慌てて間に割って入り、クレイグを止めた。
「落ち着いて下さい。自ら非になる事を起こす必要はありません」
「しかし、我が国の大使を誘拐し、無茶な要求を突き付けているんですよ!? これは重大な侮辱行為、主権の侵害、いやそれ以上だ!」
「とにかく、一旦落ち着きましょう。今はまず、大使の身の安全を優先するべきです」
 クレイグから無理やりサーベルを取り上げ、なだめすかしながらソファーへ戻らせる。真面目で穏健な外交官かと思っていたが、こんなに熱く無鉄砲な行為にも出るのか、そんな驚きを隠せなかった。若さなりに、感情が前に出過ぎる事があるのだろう。俺もまた、人の事をとやかくは言えない身ではあるのだが。
「さて、そちらの要求についてですが。ノルベルト氏の亡命受け入れと、大使と彼女の身柄交換、それらの履行には私が責任を持つ、その三つという解釈で宜しいですか?」
「結構です。流石、話が早くて助かります。閣下もそう仰っておりました」
「そうですか。しかし、残念ながら現時点で応じられるのは一点だけ、私が橋渡し役になる事だけです。後は再考願いたい」
「ちょっ、サイファーさん!?」
 クレイグが声を上げながらソファーから立ち上がろうとしたが、俺は手を広げそのままで居るようにと制する。独断で権限外の事をしているのは自覚しているが、頭に血の昇ったクレイグでは話が拗れそうに思うのだ。
「それでは困りますね。この三項はセットで考えていただかないと」
「なら仕方ありません。このまま手ぶらでお帰り下さい。せいぜい顰蹙を買うと良いでしょう」
 すると、その言い方が癇に障ったのか、青年は少し表情をしかめ始めた。
「本当に宜しいのですか? 大使の身柄の保証は出来ませんよ?」
「それが本来の目的なら、急がれた方がいいでしょう。もっとも我々は、これから南ラングリス政府へ事の次第を通報させて頂く。セディアランド大使の身柄が拐かされたとあれば、全勢力を挙げて血眼になって捜すでしょう。それをかわしきる自信がおありなら、私は一向に構いません。第一、あなた方が我が国の大使を本当に拘束しているのか、その証拠もありません。軽々に取引の約束は出来ませんね」
 む、と歯軋りに似た声を飲み込み、青年の表情はますますしかめられていく。どうやら予想外の反撃だったらしい。そして、即答出来ない所を見ると、どうやらまだ国内、それも近隣に潜伏しているようである。その上、要求を突っぱねられた時の手段を用意していない所を察するに、真っ当に交渉する余裕が無いのだろう。やはりこの書面はただの恐喝だったか。
 これは、一見不利に見えて、此方が非常に有利な立場にある交渉だ。大使を捕らわれているが、どうせ実際に危害は加える事は出来ない。加えれば最後という事が分からないほど、愚かな連中ではない。誘拐など信用のない手形と同じだ。
「……分かりました。ではひとまず、サイファー様に御同行願いましょう」
「結構。それ以外の条項については、直接話し合うという事で」
 俺は慇懃に一礼し、クレイグの隣の席へと戻った。クレイグは、不安と苛立ちが入り混じった複雑な表情をしていたが、事の推移を見守るしかないと思ったのか、特にこれといった提言はしてこなかった。
 これで、ノルベルト大使と真っ当に対峙が出来る。何故こんな事をしたのか、一体何が目的なのか、問い詰める最後のチャンスである。
 しかし、何故ノルベルト大使はルイの身柄にそこまでこだわるのか。ある種の異常さすら感じる。セディアランドへ亡命が果たせるなら、今更固執する理由は無いはずなのだが。それとも、まだ北ラングリス政府とは繋がっているのだろうか。
 俺は、うまく交渉出来るのだろうか。今になって不安が込み上げて来た。