戻る
落ち着きを取り戻し始めたのを確認してから彼女を部屋へ戻すと、俺は再び食堂へとやってきた。大使館では特に仕事を持っていない以上、何となく手持ち無沙汰になって居場所が無い感じがしたからだ。ここなら不特定の人間が出入りするし、客室のような閉塞感も無いので居心地が良いのだ。
またコーヒーを淹れて飲みながら、今後の事に思いを巡らせる。
まず第一に、ノルベルト大使の動向だ。そもそも彼の申し出によって、南ラングリスでの聴取に協力しようとしたのだ。それ自体が違法な北ラングリスとの取引のためだったのなら、決して看過されるような事ではない。少なくともセディアランドの大使も、同じ認識を持ってくれるはずである。
そこで気掛かりになるのは、彼女がレイの名で運輸相暗殺の実行犯として指名手配されている事だ。犯罪者の身柄引き渡し条約は結んではいないものの、暗殺犯とあっては理由も無しに要請を拒否するのは国際的な非難は避けられない。この二つの間で、どううまく駆け引きが出来るか、そこが重要になってくるだろう。
そして、本件の落とし所も考えなければならない。どの道、レイは不法入国者である。セディアランドにおいては、不法入国者は母国に強制送還する決まりだ。順当に考えれば、レイはこの南ラングリスへ引き渡すのが妥当という事になる。けれど、それは果たして彼女の身の安全まで保証出来るのか。余計な勘繰りかも知れないが、少なくとも現段階では南ラングリス政府もノルベルト大使も信用は出来ないし、出来ない相手に引き渡すつもりはない。
レイに対する個人的な思い入れが強い事は承知の上だが、人道的な観点からも、その前提だけはどうしても譲る事は出来ない。法律とはそもそも、物事を平和的に解決し、関係を円満にするためのものなのだ。
状況と姿勢とに齟齬が無いことを確認し、こんがらがっていた気持ちにも整理を付ける。そこで一息付いたが、その直後には早速訂正しなければならない事柄に気付く。彼女の名前はレイではなくルイなのだから、今後はそう呼ぶ事に慣れておかなくてはならない。今更変える事にはいささか違和感があるが、これは慣れるしか無いのだろう。
そうやって、しばらく食堂で何するでもなく時間を潰していると、やがてクレイグがやけに足早にやって来た。
「ああ、サイファーさん。こちらでしたか」
「ええ、ちょっと手持ち無沙汰で。何かありましたか?」
そう訊ねながら顔を上げると、そこにあったクレイグの顔は何時になく深刻さを帯びていた。
「実は大使との連絡が取れないのです。予定ではもうこちらへ戻られているはずなのですが」
「何か急用が入ったのでは? 大使は忙しい仕事だと聞き及んでいますが」
「だからこそ、所在はいつも明確にするのです。にも関わらず、連絡は付かない、所在も分からない。こんな事は着任して以来初めてのことです」
クレイグは落ち着き無く頭をかきながら右往左往する。俺は外交官の仕事事情など良く分からないが、これはかなり異常な事態らしい事がクレイグの様子から見て取れた。
大使が連絡が取れない状況とは、一体何があるのだろうか。ある程度の不測の事態にも対応出来るよう、補佐官らも前もって準備はしているはずである。となると、ある程度では済まない不測の事態が起こったのか。
「それともう一つ。これは先程入ってきた情報なのですが」
「何でしょうか」
「南ラングリス政府は、本日付を持ってノルベルト氏を特命大使職から解任、同時に指名手配したそうです」
「ノルベルト大使がですか?」
俺は耳を疑わずにはいられなかった。大使を解任されるだけでも意外な事だが、その上指名手配されるとは全く予想もしていなかった。
「まだ内々の情報ですが、情報筋は確かなものです。どうやら例の事件、南ラングリスに嗅ぎ付けられたようですね」
「という事は、ノルベルト大使は」
「これが蜥蜴の尻尾切りなのか、単なる懲戒なのかは分かりません。政府が北ラングリスとの闇取引にどこまで関わっていたのかも分かりませんからね。どちらにしても、自分達に累が及ぶ事は避けたいようです」
ルイの身柄を北ラングリスへ引き渡そうとしたのは、やはり南ラングリスにとって好ましいものではないのだろう。一応、ルイは運輸相暗殺の実行犯という扱いなのだから、大使から一変して指名手配犯となるのも頷ける事である。
これは俺にとって追い風となる事態だ。ノルベルト大使との立場的な力の差が問題だったが、これで完全に逆転したと言える。それに、南ラングリス政府が処分したという事は、ノルベルト大使がした事の非を認めた事にも繋がる。そこを足掛かりにして交渉すれば、ルイの身柄の扱いについて何とかなるかも知れない。
「今が、南ラングリス政府へ彼女の事を問い合わせる絶好のチャンスかも知れません。北ラングリスとの闇取引から手を引きたいと考えている以上、ルイの身柄について強くは出られないはずです」
「あわよくば、好都合な言質を取って手配書を撤回させてしまう、と。確かにそうかも知れませんね。それに、非が明らかになったのならノルベルト大使の件についても強く出られます。厳重抗議とすれば、無視は出来ないでしょう」
「となれば、後はこちらの大使が許可をして頂けるかどうかになりますか」
「そうですね。まったく、こんな時にどちらへ向かわれたのか」
このせっかくの好機を前にし、大使不在の事態が我々を足止めしてしまっている。クレイグはそれが歯痒そうに眉をひそめ、苛立ち紛れに指を何度か鳴らした。外交文書は時に一分一秒を争うケースがある、という事は俺も知っている。奇襲と宣戦布告を同時に行う時などは特にそうだ。奇襲が宣戦布告の前になるか後になるかで、国際的な評価が天と地ほども変わるのだ。今の状況もそれに近い。時間が経てば経つほど、南ラングリス政府はルイの件について熟慮する余裕が出て来る。騒ぎ立てる素振りを見せながら言質を取る手段が通用するのは、事態の沈静化をしようとし始めた今だけだ。
この異例の事態を受けた事で、そんなやり取りをしていた時だった。
「クレイグさん、大変です」
また食堂へ慌ただしく何者かが駆け込んで来る。それは昨日も会った、大使館務めの外交官の一人だった。
「どうしました? 随分慌てているようですが」
「たった今、ノルベルト大使の使いという者が当館へ参りました」
「ノルベルト大使の?」
俺とクレイグは思わず顔を見合わせ、そして訝しげに彼に再び問うた。
「それは確かなのですか?」
「確認はしていませんが、少なくとも本人はそう主張しています。それと、ノルベルト大使からのという書状も」
外交官はクレイグへ一通の封筒を差し出した。見た目は一般で使われているような安物の便箋ではなく、公式な通達に使うような錦糸入りの便箋に見えた。封蝋もしっかりとなされ、素人目にも差出人が只者ではない事が分かる。
「この封蝋……本物のようですね」
「如何しましょうか? 何せノルベルト大使は……」
「とにかく、話を聞かない事には何とも。応接室へ通して下さい」
「分かりました。直ちに」
そう言って、外交官は再び玄関の方へと向かって駆けていった。
「何を企んでいるのか分かりませんが……まず、話ぐらいは聞かないといけませんから。サイファーさんも宜しいですよね?」
「ええ。私も、一体どういう意図があっての事か気になりますから」
頷き返し、自分もこの事態を軽視していない姿勢を示す。
まさかこの状況下で、自分からこちらに接触を図ってくるなんて。
これには何か裏があるのか、それとも形振り構わず保身に走り出したのか。どちらにせよ、きな臭さが俄に漂ってきた事は確かだ。