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「嫌っ、来ないで!」
 ドアが開け放たれたままの医務室に足を踏み入れようとした直後、いきなりヒステリックな金切り声を浴びせられた。一体何が起きているのかと室内を見渡す。レイが横たわっていたはずのベッドには誰の姿も無く、乱れたブランケットが残されているだけだった。何処に行ったのか、などと考えながら見渡していると、突然反対側から何かが投げつけられ、無防備だった俺の顔にぶつかった。
「うっ!」
 ぶつけられた物はさほど硬さは無かったものの、それなりに重さがあったせいか衝撃が頭と首へ直に伝わって来て、思わず後ろへよろめいてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
「え、ええ。大した事はありません」
 ぶつけられた所を軽く撫でながら、足元に落ちた投げつけられた物を見やる。それはベッドの上にあったはずの枕だった。この国の枕はセディアランドよりも硬めで重量があるようである。
「とにかく、私が説得してみますので。お二人は下がっていて下さい」
 クレイグとサンディアを入り口から遠ざけ、俺は再び医務室へ脚を踏み入れる。今度は不意を突かれぬよう、予め周囲の気配に警戒しながら入った。
「レイ、俺だ。サイファーだ。少し落ち着いてくれないか」
「何故ですか! ここは何処なんですか!」
「南ラングリス内にある、セディアランドの大使館だ。ここは安全だから、身構えなくていい」
「そんな事……そんな事ありません!」
 レイの叫び声の方を辿っていくと、丁度窓際の机の影に屈み込んで居る姿が半分ほど見えた。そこに陣取り動く気配が無いようである。それどころか、迂闊に近付けばどんな攻撃をされるか分かったものではない。これまでのストレスが限界を迎えて、ヒステリーを起こしたのだろうか。
「いや、大丈夫だ。俺達の事情は説明し、それで保護してくれるそうだ。もう心配は要らない」
「そんな事を言って……そうやって油断をさせて、突然と来るんです! あの人達は!」
「あの人達?」
「だから、信用が出来ないから、今度こそ油断はしません!」
 一体レイは何の事を言っているのか。あの人達とは一体何処の誰を指すのか。レイの言っている事はどうにも前後が繋がらず、話が噛み合わない。
 しかし、レイの様子はヒステリーとはまた違うもののような印象を受けた。これは恐慌に近いように思う。以前、似たような様子の人間を見た覚えがある。あれは確か、監察の目を逃れて逃亡していた人間を確保しようとした時だったか。
「とにかく、私に近寄らないで下さい!」
 再びレイが何かを投げつけてきた。咄嗟に飛んできたそれを受け止める。それはカルテなどを挟む木の板だった。
「もしかして、記憶が戻ったのか?」
「えっ―――」
 果たして図星だったのか、レイは一瞬戸惑いを見せた。
「ならば、俺の事も忘れた訳ではないはずだ。俺はサイファー、中央監部の監察官だ。君を自国へ送還する役目を帯びている。どうだ? 覚えはあるはずだ。俺は君の敵ではない」
 急にレイは黙り込む。何か思い当たる節があって記憶を整理してくれているのか。とにかく、感情的に当たり散らすのを止めてくれるだけでも有り難い。
「本当に、本物のサイファーさんですか?」
「おかしな事を聞くな。俺なんかの偽者が居るのか?」
「証明出来ないのなら、信用出来ません」
 考えてくれるようになったのは良いが、随分おかしな結論に達したようだ。自分で自分が本物である事を証明するのは難しい。身分証ぐらいは持っているものの、民間人にはそれの真贋は判断が付かないだろう。他に出来る事と言えば、納得するまで質問に答えてやるくらいしか無い。
「どうして俺が本物かどうかに固執するんだ? 俺の偽者でも見たのか?」
「あの人達は……そういう事が得意ですから」
「その、あの人達とは誰の事だ?」
「とぼけないで下さい。知っている癖に」
 如何にも凝り固まった態度で突き放される。元々、説得や交渉術の類は苦手である。基本的な訓練は受けたものの、監察官はあくまで法に照らし合わせて粛々と執行するだけで、対象と交渉する事はほとんどない。だからこそ、内部の組織的な犯罪には弱くて、俺自身も失敗した経緯があるのだけれど。
「サイファーさん、どうしましょうか? 警備員を呼んで来ますか?」
「いや、もう少しやらせて下さい」
「あまり拗らせては、私も立場上看過出来ませんよ」
 大分焦りの出て来たクレイグを宥め賺し、再度俺はレイに呼び掛けた。あまり興奮させぬよう、言葉遣いには慎重になる事を心掛ける。しかし、人を和ませる話口調には縁がなく生きてきたので、あまり自信はなかった。
「本物かどうか証明しろと言われても、それは難しい。どうしてそんなに拘るんだ? 俺は国政の末端に関わっただけだが、それでも人間の偽者を作るのは非常に難しい事ぐらいは分かる。俺の偽者なんて、わざわざ作る理由は無いよ」
「でも、偽者は居たんです! あんなそっくりな……もう小さい頃に別れたきりなのに、記憶通りそのままで……」
「小さい頃に?」
 俺はレイとは今回が初対面のはずである。これは、俺ではない別の誰かの事を言っているのだろう。その人物に関しては、偽者が居たというのだろうか。
「あの人達はそういう事が出来るんです!」
「そ、そうか。だが、どうして偽者だと思ったんだ? 見分けの付かないほどそっくりだったんだろう?」
「そうです! だから私だけじゃありません、あの子まで最初はすっかり騙されて、油断して。そのせいであの子は、レイはあんな事になってしまったんです!」