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「うっ!」
あらかじめ覚悟を決めていたとはいえ、剥き出しの傷口を消毒液で洗われる痛みは、とても尋常なものではなかった。傷口をほじくり返すのとはまた違った、脳まで響く鈍くしつこい痛みに、思わず奥歯をぎりっと噛み締める。この感覚を、染みる、と表現するのは実に的確だと思う。痛い以外では、まさにそうとしか言いようのない感覚だ。
「あ、あの、大丈夫でしょうか?」
「何でもない、気にするな。続けてくれ」
こちらの様子を心配そうに窺うレイに、俺は努めて無表情で受け答えた。けれど、痛みのせいでどうしても腕の筋肉は緊張し固く収縮するから、それを押さえているレイには伝わっているだろう。年下の女にこの程度の怪我の事で心配され、こうも弱々しい姿を晒す事がこれほど屈辱的だとは。
傷口の汚れを綺麗に洗い落とすと、一度は止まり掛けていた血が再び傷口から溢れ出してきた。その様はまるで、ナイフを入れた直後のレアステーキを連想させる。血は、実際は傷口の奥からではなく、肉の断面から溢れ出て来るものだ。
レイはてきぱきと針と糸を準備する。本当に傷口を縫った経験がそれなりにあるらしく、実に準備の手際が良く見えた。
「では、始めますね。すぐに終わりますから」
そう言って、レイは傷口の端に針を寝かすように刺した。出来るだけ我慢している振りを見せたくなくて、手のひらを握らず敢えて開いたままにする。けれど、まるで獣の爪を表しているような形のまま固まるという、かえって不自然な状態になってしまった。
「痛くはありませんか?」
「正直、傷口の方が遥かに痛むな。麻痺しているのか、何も感じない」
などと答えてはみるものの、実際針が肉を通る痛みははっきりとあった。痛みの質が違うのだろう、声をあげるような程ではないが、ちくちくとした鋭い痛みは不快以外の何物でもない。そしてその後に続く肉と糸が擦れる音も、驚くほどはっきり耳殻に届くのがまた不快だった。こういう怪我などするものではない。改めてそう思う。
レイはまるで布を縫うようにあっという間に傷口を縫い上げてしまうと、最後に糸を歯で噛み切り、解けぬように結んだ。時間にしてほんの数分といった所だろう。本当にあっという間の淀みない作業だった。
「少しガーゼで押さえていて下さい。血はすぐ止まると思います。それから包帯を巻きましょう」
「ああ。本当に助かった。利き腕の怪我は自分では縫えないからな。俺はあまり器用な方じゃないんだ」
「いえ、大したことではありませんから」
「そう言う割に、随分と手際が良かった。こういった医療関係の仕事をしていたのか?」
「分かりません……。ただ、良くこういう事をしていた気がするのです」
「じゃあ身近な所に、よく怪我をする人がいたのか?」
「もしかすると。そんな気がします」
縫う必要があるような怪我など、日常生活ではそうはするものではない。医者以外でそれが身に染み付くほど繰り返すのは、前線の兵士ぐらいなものだ。
レイは普通とは違う血の臭いのする環境に居たのだろうか。そうなると、どうしても医者より暗殺組織の方が脳裏をちらついてしまう。非合法の組織なら、怪我をする事も日常茶飯事である。
「そろそろ出発しよう。そっちのランタンは点いているか?」
「はい、大丈夫です。けど、縫ったばかりですけど、傷は痛みませんか?」
「大したことはない。別に死ぬような傷でもないんだ」
広げた道具類を手早く鞄へ片付け、俺達は洞穴の奥へ向かって出発した。目指すは、洞穴を抜けた先にあるという南ラングリス、そのセディアランド大使館だ。
既に外は日が落ちていて、洞穴の中は進むまでも無く、足元も見えないほどの暗闇に包まれている。二人分のランタンで、ようやく数歩先の足元と互いの顔がぼんやり分かる程度である。こんな所を一人で進むのは、本音を言えば流石に腰が引ける。こんな所で歩く事が出来なくなったらどうしようとか、そんな不安感に終始苛まれるはずだ。暗闇が人間の精神力を蝕むという話は知っているが、たとえランタンがあっても正気で抜け出せる絶対的な自信は無い。話し相手が居るだけで、非常に気は楽になる。
しばらく進んでみたが、やはり周りの景色が暗くて良く分からず、早くも自分がどれだけ進んだのか分からなくなってきた。時間の感覚もおぼろいでいる。洞穴へ戻ってきた時に食べた乾パンと干し肉がまだ胃に残っている感覚があるので、まだ一時間も歩いていないだろう事は予測出来る。けれど、既に数時間、或いはそれ以上歩いたような気分になってきている。
「あの、サイファーさん」
どれ程か歩いた頃、ふとレイが話し掛けて来た。
「何だ?」
「何かお喋りしませんか? その、こう静かだと耳鳴りがして、なんだか落ち着かなくって」
「それもそうだな。このまま黙々と歩くのもいささか退屈だ」
密閉されたこの空間では、互いの声が共鳴して酷く響くので、大体どの辺りに居るのかを伝えるようなものである。けれど、どうせ追っ手は振り切っている。多少声を響かせた所で何も問題はない。
「その、前から気になっていたんですけど。サイファーさんは、どうして今のお仕事に就いたのですか?」
そう訊ねられ、ただの談笑かと思っていたらいきなり身の上の質問かと、俺は一寸声を詰まらせる。
「そうだな……。今思うと、非常に青臭い理由だな。なんせ、子供の頃に決めた事だから」
「小さい頃の夢を叶えたんですね」
「そんなものじゃないさ」
久方振りに開ける過去の自分の心境に、思わず苦笑いが漏れる。
「物心付いた頃からだったかな、新聞なんかを読むたびに社会の在り方に不満を持っていてな。犯罪者が絶えないのは仕方がない。けれど、どうして憲兵や役人は、同じ犯罪を犯しても甘い処分で許されてしまうのか。それがどうしても不満でならなくて、許せなくてさ。だから、監察官になった。明確な犯罪を、魔が差しただとか社会悪だとか、そんな膜に包んだ言葉に置き換える事を断固として許さない、そういう人間になりたくてな」
「とても正義感に溢れていて、立派な事だと思いますよ」
「だが結局、自分の手には負えない巨悪に噛み付いて、あんな閑職へ飛ばされてしまった。見ただろう? あれが、その正義感の評価さ。考えが甘かったんだ。正義とは劇薬であるから薄めて使用しなければならず、物事は必ずしも白黒つけるべきでは無かった。それを理解するのには、高過ぎる授業料だったな」
「でも、私は恥じる事ではないと思います。だって、サイファーさんは間違った事をした訳ではないのですから。たとえ評価されなくとも、私は正義を貫くべきだと思います」
「そうだな。正しいという評価をするのが誰か、たったそれだけの問題なのさ。君の件を引き受けて、尚更それを実感したよ。自分が正しいと思ったなら、どんなに困難でも簡単に引くべきじゃないってね」
しかし、その結果はこの通り、困難が束になって押し寄せて来る状態である。一国の政府に追われて命からがら逃げ出し、自国の保護を求めて密入国をする有り様。なんとも波乱に満ちている。正義を貫こうとすればするほど、更に困難な状況へ巻き込まれていく。本当に自分は正しい選択をしたのか、本音では迷いや不安が尽きることはない。
「次は私ですね。でも、サイファーさんには既にお話した事しか覚えていなくて」
「構わないさ。それに、この洞穴は一度は通った道なのだろう? もしかすると、ふとした拍子に何か思い出すかも知れない」