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やがて日が落ち掛ける頃合いになると、洞穴に差し込んでいた日の光も橙色に染まり始めた。完全に暗くなってからでは岩肌を降りるのは危険であるため、俺達は程なく洞穴から倉庫街へと降りた。
「金はロイドから貰った分があるからいいとして。此処から近い雑貨屋か何か、店を憶えていないか?」
「多分それなら、あの港の近くにあったはずです。いつもお爺さんが一人で店番をしていました」
「港の近くか。憲兵がいるかも知れないが、まあ何とかなるだろう」
「大丈夫でしょうか?」
「日没前は、みんな足を早めるのが普通だからな。多少不自然に歩いても声はかけないだろう。それに、暗くなり始めた頃合いは目が慣れていないせいで、意外と人の形は分からないものなんだ」
確かこれは、諜報員の基礎研修の時に習った事だったか。監察官志望の自分には全く不要の知識だと軽んじていたが、まさかこんな形で役に立つ日が来るとは夢にも思わなかった。
倉庫街を抜けて海沿い大通りに出ると、そこは昼間とは打って変わって多数の人の行き交いがあった。いずれも仕事帰りか夕食の買い出しのどちらかで、決まって大手の鞄を携えている。これは実に都合が良い状況だ。あの脱出路からこの近辺に辿り着かれている事は覚悟していたが、この人混みにうまく紛れてしまえば追っ手の目はまず届かないだろう。それに、こちらの推測が正しければ、北ラングリス政府は事が公になるのを嫌うはずだから、尚更強硬手段には出られない。
「あっ、ありました。多分あそこです」
レイの示す先にあったのは、通り沿いにぽつぽつと並ぶ老朽化した小店舗の一つだった。その一帯に足を止める客は居ない事もないが、非常にまばらでお世辞にもはやっているようには見えない。店主に我々の姿が印象に残りやすくなる、少しだけそんな危惧を覚えた。
「こんにちは」
レイは慣れた足取りで店内へ入る。その後を、周囲の視線や店内の人間の配置などを細かく気にしながら続いた。
店内に他の客の姿は無く、奥のカウンターに座る高齢の店主が一人居るだけだった。手短に済ませば、我々の痕跡は薄くて済むだろう。
しかし、
「お爺さんこんにちは」
レイはカウンターの前まで進むと、もう一度店主に向かってわざわざ挨拶をしてしまった。思わず制止の声と口を噤む仕草が同時に出て、大きな空気の塊を飲み込んでしまった。
「ああ、はいはい。いらっしゃい。しばらくだったね」
「お店、まだ大丈夫?」
「いいよう、もう少しだけ開けといてあげるから」
店主は開いてるのか閉じているのかも分からない目で、レイの方向を大体で向いてそう答える。店番が出来るのも不思議なくらいだ、そう俺は思った。
「サイファーさん、まだ大丈夫だそうです。何から揃えましょう?」
戻って来たレイは、そうニコニコしながらあどけない表情で報告する。自分の置かれた状況を自覚して行動しろとか、そんな注意をしてやりたかったが、この表情にはそれも躊躇ってしまわれた。
「君はあの店主と知り合いなのか?」
「知り合いのような、そうでないような。私が子供の時から、誰にでもあんな風だったので」
「そうか……。とにかく、これからは人との接触は慎むように」
年に寄るものが来ているようだから、仮にレイの事を憶えていたとしても、憲兵達も執拗に追及したりはしないだろう。何にせよ、あまり、長居はしないに越したことはない。
セディアランドの雑貨店と比べると明らかに見劣りはする品揃えではあったが、簡単な治療道具を初め、ランタンや上着など一通り必要なものは見付ける事が出来た。あの洞穴がどれくらいの深度があるかは目安でしか分からないが、少なくとも簡単に遭難したりはしないだろう。
「ねえ、お爺さん。この水筒にお水を戴けませんか?」
「はいよ、ちょっと待ってな」
必要な物を集めていると、再びレイは何の断りも無く店主とそんなやり取りを始めていた。もっとも、水は必ず必要なものだから、そう非難出来るものでもないが。
一度奥に引っ込んだ店主は、見た目に寄らぬしっかりした足取りですぐに戻って来た。水筒も僅かに湿っているが、きちんと注ぎ漏れを拭いているようである。人の顔は曖昧になっているが、仕事のことはまだまだはっきり憶えているようである。
「沢山だねえ。これで全部かい?」
「うん、お願いします。この鞄に詰めて持って帰りますから」
「はいはい。ありゃ、そちらの方はどなたさんだっけ?」
今までレイとばかり話していた店主が、突然俺の方へ目を向けてきた。最初から俺の存在に気付いていたかも疑わしいが、今になって注目されるのは些か煩わしく思った。
「あ、いや、自分は」
適当に答えて誤魔化そう。そう思っていたのだが、それより先にレイが答える。
「私の夫です」
は。
あまりに突拍子もない返答に、思わず声を上げそうになる。
「ああ、そうですか。良さそうな方ですな」
「はい、本当に」
何を和んでいるのやら。
この二人のペースに合わせていては、何時まで経っても買い物は終わらない。俺は二人の間に割って入ると、財布から金を一掴み取ってカウンターへ並べた。
「これで足りるかな?」
「ありゃあ、少し多いようだなあ。ちょっと待ってておくれ。数えるから。どうも最近は計算が遅くていけないねえ」
「いや、多い分は取っててくれ。遅くまで開けさせた迷惑料だから」
「ええっ、大分多いよ?」
「構わない。どうもありがとう」
挨拶もそこそこにし俺は品物を鞄へ詰め込むと、レイを連れて足早に店を出た。日はあれから相当傾いたようで、辺りは人の顔が見え難くなり始めるほど薄暗くなっている。通りを行き交う人も目に見えて少なくなってきている。もうあまり長居はしていられない。俺達は自然と足を早めて、あの洞穴の方へ急いだ。
「……君は一体何を言っているんだ?」
倉庫街へ抜けて周囲から人影が消えると、俺はおもむろにそんな事をレイに訊ねた。
「あれが一番自然だと思ったんです」
「別に兄でも親類でもいいだろう」
「サイファーさんとは髪の色が違いますし、おかしいと思われますよ。それに、サイファーさんの言葉にはセディアランドの訛りもあります」
そんな細かい事に気付ける店主だっただろうか。
ともかく、無事に物を揃えられた以上、そこまで追及するような事でもない。
「戻ったら、腕の傷を何とかしましょう。化膿するといけないですから」
「君に任せても良いのか?」
「大丈夫です。何となく、前からやっていたような気がするので」
何となく、か。
レイの記憶は確かに戻りつつあるようだが、それに対して何の不安も無いのだろうか。そんな心配をするものの、レイはいつも通り穏やかな表情をしている。先程の珍妙なやり取りもそうだが、記憶があろうと曖昧だろうと、あまり深刻には感じたりはしない性格なのだろう。
だが、先程のあれは大分参った。もしかすると、わざと言って、こちらの反応を見たのではないだろうか。
記憶を無くす前は、あんな悪戯染みた事もしていたのだろうか。何となく、そんな事を思った。