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 建物を出ると、そこは閑静な住宅街だった。しかし良く辺りを見回してみれば、どの建物も酷く痛んでいて、庭も手入れがされず荒れ放題になっている。通り沿い全てが寂れているといった印象だ。かつては本当にただの住宅街だったのかも知れないが、何らかの理由で住人がまとめて転居していったのだろう。ロイドの隠れ家からはそれほど離れていないはずだが、同じ市内での栄え具合に随分な明暗が分かれているようである。
「参ったな……。これは何処へどう行けばいいのか」
 自分は異邦人である。この北ラングリスの地理など到底知る由もない。とにかく今は何処かへ逃げるしかないのは分かっているのだが、闇雲に逃げた所でかえって危険な場所に迷い込んでは元も子もない。
 ともかく、通り沿いを右に向かうか左に向かうか。一か八かの勘で選択するしかないだろう。
 そう溜め息を漏らした時だった。
「あ……!」
 突然、レイがぽつりと声を上げた。どうかしたのか、と振り返ろうとすると、それよりも先にレイは通りを駆け出してしまった。
「おい、待て! 勝手に動くな!」
 すかさず追い掛け、レイの肩を掴んで止まらせる。それでも尚レイは周囲をきょろきょろと見回し、しきりに何かを探している。普段は比較的穏やかで振る舞いもおっとりとしているだけに、この唐突な行動はやたら奇異に見えた。
「どうしたんだ急に」
「此処……私、何となく覚えがあるんです」
「覚えが?」
「海の方へ行きましょう! 何かとても胸騒ぎがするんです」
「いや、海と言われても、何処をどう通ればいいんだ? この町の地理は知らないんだが」
「大丈夫、こっちです。ほら、潮風が吹き込んで来ていますよ」
 海とはあまり縁の無かった俺に、潮風がどうと言われても今一つピンと来るものはない。しかしレイには、普通の風と潮風ははっきり違うものと認識出来るようである。
 再び駆け出すレイに、ともかく俺もぴったりと後に続く。女の足に遅れを取ったりはしないが、右腕の鈍痛が僅かに俺の足を引っ張った。見ると、肩口から肘に掛けて袖がじんわりと赤く染まり始めている。出血量はさほど多くはないが、掠り傷という優しい程度でも無いようである。深さの程度によっては、傷を縫わないといけないかも知れない。
 やがて住宅街の端が見えてくると、その先には港の風景が広がっていた。船は大小に数隻が並んで停泊しており、丁度その内の一隻が荷下ろしをしている最中だった。
 此処へ連れて来られた時に降りたのは、この港だっただろうか。あの日の記憶を掘り起こしてみたが、元々ほとんど地形など見る余裕も無かったから、この港の照合は出来そうにない。そもそもあの後は、ロイドの馬車で良く分からない道程を移動したのだ。
「っと……まずい」
 俺はレイの手を取って強引に建物の隅へ潜む。丁度港と住宅街を挟んだ通りを、先程と似たような装備の兵士が二人、並んで通り過ぎていった。雰囲気からすると、この周辺の巡回、警邏のようである。ただでさえ目立つ格好をしているのだから、見つかればまた厄介な事になるに違いない。
「ただの港の割に、やけに厳重だな。船も特別なもののようには見えないのだが」
「あ、あの、もしかすると……」
「何だ?」
「いえ、何となくなのですが、此処の事を思い出して来たような―――うっ……」
「どうした?」
「いえ、少しだけ頭痛が。もう収まりました」
 そう答えるレイの表情は普段通りのものに見える。しかし、先程からあきらかに様子が異なっている。これは記憶が戻る兆候なのだろうか。
「あの、サイファーさん。私、やっぱり此処には覚えがあります。見覚えとかではありません。良く分からないのですが、はっきりと憶えている事があるんです」
「もしかして、此処に住んでいたのか?」
「多分そうです。今よりも大分前の事だと思いますが、此処に居た記憶が沢山あって、その時の場所とかも幾つか分かるんです」
 これまでは記憶を思い出しても、断片的で曖昧なものばかりだったのだが、今度ははっきりと断言した。相当明確に思い出せたのかも知れない。情報としてはかなり信憑性のあるものだろう。
「あの、今はどこかへ逃げないといけないんですよね。もしまだ残っているなら、という前提ですけど、隠れるのに良い場所があります」
「良い場所?」
「はい、こっちです。大丈夫、そう簡単に見つかるような場所ではありませんから」
 そう言って、レイは再び通りへ飛び出して行った。まだ兵士達の後ろ姿が消えてはいないのだが、放っておく訳にもいかず俺もすぐにその後を追う。
 レイは通りを少し進んだと思ったら、すぐさま狭い路地へ左折した。その先に抜けたのは港近くの古い倉庫街で、廃れ具合から察すると使われなくなってからかなりの年月が経過しているようだった。その人気の無い狭い通りを尚も駆けるレイ。足取りには全く迷いがなく、何処か目的地へ一直線に向かっている。そのせいか、随分と足が速いように感じた。追い付けない程ではないが、そう感じるのは決して腕の怪我だけでは無い。
 しばらく倉庫街を進んでいくと、やがて区画の終わりであろう高い花崗岩の岩壁へ辿り着いた。元々この倉庫街は海岸線の岩肌を切り崩して建てられたのだろう。この岩壁も斜面が町側を向いていて、非常に不自然な形状をしている。
 此処から何処へ向かうのか。
 そう思うや否や、レイは岩肌に足を掛けると、そのままよじ登る体勢を取った。
「ちょっと待て。まさか此処を登るつもりなのか?」
「いえ、そこまでじゃありませんよ。ほら、あそこ見て下さい。何か見えませんか?」
 そう言ってレイが指差す先を、じっと目を凝らして見る。白と灰色の斑模様ばかりが続く花崗岩の岩肌に、別段これと言って変わったものは見受けられない。分かるのは、素手でこの断崖を越えようというのは自殺行為でしかない事だけだ。
「いや、何も分からないが」
「あそこですよ。ほら、あの影のところ」
 一体そこまでして何があるのかと、半信半疑で再び岩肌を良く見る。しばらく睨み続けていると、ふと斑模模様の中に何か不自然な色の交わりがあるのを見つけた。
「あれは……もしかして洞穴か?」
「はい、そうです。此処からでも見つかり難いくらいですから、隠れるのには丁度いいと思ったんです」