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まずは背後の男の両腿を、剣を抜き放った勢いで真一文字に切り裂く。張り詰めた腿の筋は、切り離すと強烈な痛みを発する。それは分かっていてもなかなか堪えられるものではない。
驚きで緩んだ手を襟首から振り解き、振り向き様に鳩尾へ蹴りを叩き込む。体重差もあり型も滅茶苦茶な蹴りだが、男は腿の痛みで堪える事が出来ず、呆気なく背中からどうと音を立てて転倒した。
目の前の男は、突然機敏に動き出した俺に未だ驚いている。俺は構わず無防備な男の顔を斜めに切り裂いた。途端に男は悲鳴を上げながら顔を押さえ、その場に屈み込む。大して深くはない傷だが、顔に傷を負わせるのは戦意を喪失させるに非常に有効だ。
当面の障害を取り除くなり、すぐさまへたり込んでいるレイの元へ駆ける。レイはこの騒ぎにも拘わらず、未だぼんやりと地面を見ていた。
「レイッ!」
こちらを向かせ頬を軽く叩きながら大声で呼んでみたが、レイは俺の声を聞き取れているのかどうかも分からない、曖昧な返事をするだけで視線も合っていなかった。
薬はまだしっかりと効いている。これでは自力で走るのは無理だ。
「散らばるな! 先に議員を逃がせ!」
「おい、武器が足りないぞ!」
初め数える程度だった怒号は、見る間に大きな波のようになって周囲に押し寄せる。交戦は燃え上がる火のように激しさを増していき、場の空気が張り詰めていくのが嫌でも肌に伝わって来た。俺の緊張感も一気にピークへ達し、全身からどっと汗が吹き出し、いつの間にか肩で息を始めていた。
双方の素性も目的も分からない以上、この場で俺達がどう見られているのかも分からない。まずいのは、この戦いに巻き込まれる事だ。
とにかく、今はこの場を離れるしかない。俺は動けないレイを背負い、おおよその地形を観て港の外へ向かって走り始めた。双方の正体を確かめておきたい心境もあったが、今は身の安全を最優先しなければならない。とにかく、脇目も振らずに喧騒の中を直走る。
建物の影から影を辿り、少しでも喧騒を避けながら港の外を目指す。レイの体重が思ったよりも軽い事もあるが、自分が驚くほどの運動力を発揮しているのを感じた。余程この状況を危機と捉えているのだろう。怠惰な生活を続けた後とはとても思えない。
ようやく喧騒を駆け抜け、港の外らしい車道へと出る。周囲は暗く、建物は建ち並んではいるものの、灯りの点いた窓は一つとして無かった。当然、こんな夜更けに人通りがある筈もない。この嫌な静けさには作為的なものすら感じる。
何処か助けを呼べる場所はないか。いや、此処が何処かも分からずにそんな安易な行動は取るべきではないのではないか。しかし何かしら確認するにしても、あまりに取れる行動が限られている。
次は、この後はどうすればいいのか、すっかり混乱してしまっていた。まだ薬は若干残っているのかも知れない。それに、こんな状況に巻き込まれる事がそもそも初めてだということもある。俺はすっかり普段通りの冷静な思考が出来なくなり、この一時でも惜しい状況下で右往左往してしまった。
その時だった。
「こちらへ!」
突然通りに響いた男の声、驚き視線を向けると、一台の馬車が車道脇の建物の影に隠れるようにして止まっていた。ドアは開かれ、中から一人の老紳士が身を乗り出している。明らかに此方に向けて発した声のようだ。
「お早く! 間も無く憲兵達が駆けつけます! そちらまでは手は回しておりませぬ!」
枯れた喉で何とか振り絞ったような、必死の訴えだった。
何処の誰かは分からないが、目立った武装をしている訳でも無く、伴も連れていないように見える。一見しただけでの危険は感じられない。見ず知らずの人間に頼る危険性は理解しているが、この状況で闇雲に逃げるのはあまりに無謀である。
今は妥協する他無い。
意を決し、俺は急いで老紳士の馬車へと駆け込んだ。
「出せ!」
俺達が乗り込むや否や、老紳士の合図が飛び、馬車が走り出した。窓の外の景色がどんどん前から後ろへと加速していき、何度か右折する内にすっかり元の場所が分からなくなった。
「失礼ですが、セディアランドのサイファー様で御座いますね?」
息を整えていると、向かいの席へ座る老紳士は先程の大声とは打って変わって、非常に物腰柔らかに恭しく訊ねて来た。
「そうだが、何故俺の名前を知っている?」
「我々の情報筋からで御座います。レイ様と貴方様が今日こちらへ運ばれて来る事も、全て存じ上げておりました」
予め間諜の類をセディアランドへ放っていたのだろうか。しかし我が国は、それほど簡単に情報を明け透けに出来るほど対策の甘い国では無かったはずだが。
「助けて頂いた上で失礼だが、あなたは何者ですか? 今の襲撃はあなたの手引きで?」
「はい。私は北ラングリスで貿易商社を営んでおります、ロイドと申します」
「此処は北ラングリスなのか?」
「左様で御座います」
「どういう事だ。何故南ラングリス政府の船が、北ラングリスの港へ? いや、初めからあれは北ラングリスの者だったのか?」
「私は南ラングリス政府の者だと聞いております」
「南ラングリス政府の? ならば、港にいた連中は、まさか北ラングリス政府の人間か?」
「おそらくは。両国間での何らかの裏取引だったのでしょうな。それでお助け致しました」
確かに港にいたあの男達は一般人とは異なる雰囲気を纏っていたが、犯罪者特有の野卑さも感じられなかった。それが政府関係者となれば納得もいく。しかし北ラングリスと南ラングリスは、外交上では対立していたはずだ。一体何を目的とした取引だったのだろうか。考えつくのはやはり、黒蜥蜴に関連した、例の暗殺事件の事だが。
「あなた方は何故その取引を妨害するのです?」
「北ラングリスの情勢はある程度御存知かと。我々は現政権の成り立ちも行政にも大いに不満がある、それは政府のスキャンダルを欲しがるには充分な理由でしょう?」
「それを手にしてどうする?」
「さあ、そればかりは御想像にお任せ致します」
ロイドはそうはぐらかしたが、政府のスキャンダルの使い道などそう多くはない。大方、この裏取引の事実や暗殺事件に関連した現政府のやり口を公表する事で、自分達の大義名分とするのだろう。端的に言えば、それはクーデターを起こすための大義名分だ。
「それに、私は個人的にも彼女をお助けしたかった」
そう言いながら、ロイドは未だぼんやりとしているレイへ視線を向ける。その眼差しには、何やら只ならぬ強い感情があった。それは憎しみや憎悪というよりも、その対極である称賛や崇拝に似ている。
「彼女を知っているのか?」
「勿論。私はおろか、この国で黒蜥蜴のレイ様を知らぬ者はおりませぬ。あの憎き南ラングリスの運輸相サドグリファを討った偉人ですから」
「討った? 何の意味だ?」
「おそらくセディアランドでも報じられたはずです。天誅を下した、という事ですよ」
「暗殺、という意味か?」
「はい、その通りで御座います」