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翌朝、俺達は指定された通り庁舎の裏口の前で南ラングリスの迎えを待った。まだ霧も晴れていない時間で、通りにも人の行き交いは殆ど無い。俺とレイ以外で周囲に居るのは、裏口に併設されている詰め所の警備兵くらいである。その兵士も、門の影になっているこちら側には一度視線を向けた切りで、今は中へ引っ込んでいる。基本的に、敷地外の事にはあまり触れようとしないらしい。
「昨夜はちゃんと眠れたか? これからは居眠りも出来ないぞ」
「その、実はあまり眠れませんでした。何か緊張してしまって……」
「まあ、政府機関と長く関わるような事は、一般人では早々あるものじゃないからな。慣れろとは言わないが、あまり緊張して失言はしないように注意した方がいい」
「はい、気をつけます」
そう答えるレイは、やや不安げな緊張の面持ちだった。今の言い方では、却ってプレッシャーになってしまわなかっただろうか。少々軽率な言い方だったと反省する。
「前に話していた事なんだが。君の家族か誰かの存在は、まだ何も思い出せないのか?」
「はっきりとはまだ。多分、同じ女性だとは思います。何となく、一緒に暮らしていた時の雰囲気からして」
「女性、か。母親か、もしくは姉妹か。家族同様に親しい付き合いだった友人という線もあるな。どの道そこは、まだはっきりとしないか」
「その事はお話すべきなのでしょうか?」
「特に訊ねられなければ、黙っている方がいい。下手に詮索されて時間を掛けられると面倒だ」
「分かりました。訊かれた事だけに答えるスタンスで良いのですね」
「そういう事だ」
本当なら、こんな事にかかずっている状況ではない。ノルベルト大使の要請など、本来なら受ける理由はないのだ。しかし、レイの身元がラングリス方面である可能性が高い以上、大使の要請を無碍にする事は出来ない。
取り敢えず、問題の無い内はきちんと協力をし、その見返りとしてレイの問題について協力して貰う、それが最善の方策だろう。レイの国籍が南ラングリスにあれば、大使への要求は尚更具体化出来る。用件が済めば約束事を反故にするタイプではないと思うが、それは何とか上手く交渉するしかないだろう。わざわざラングリスくんだりまで赴いて、何一つ協力して貰えなかったなどという徒労はまっぴらである。
「サイファーさんはお疲れではありませんか? 連日お仕事で遅くなっているようですが」
「ベッドで寝る時間があるなら、まだまだ楽な段階さ。忙しい内には入らない」
「普段からあまり寝ていらっしゃらないのですね」
多少眠らないのは慣れているが、そもそも最近は閑職のお陰で暇で、日中から寝てばかりだったのだ。少しくらい寝ない方がかえって頭が冴える。それに、寝過ぎると早くに惚けるという噂もある。これくらいの緊張感がある生活の方が健康的だろう。
そんな雑談をぽつぽつとしていると、程なく一台の質素な馬車がやってきて俺達の前に止まった。昨日、ノルベルト大使の随行員と話した迎えの馬車である。思っていたよりも随分と地味な車両だったが、おそらくあまり目立たぬようにとの配慮なのだろう。
馬車の中から紺色の礼服を来た青年が現れ、こちらを確認して一礼する。今日の随行員らしい。
「失礼、些か遅くなりました。何分、この霧ですので」
「大した待ってはいませんよ。ところで、昨日とは違う方のようですが」
「はい、あの者は大使と別件の職務中ですので、本日は私が御案内させて頂きます」
「そうか。やはり大使というものはご多忙のようだな」
昨日の随行員は、大使の仕事にどうしても欠かせない人物だったのだろう。思い返せば、確かに如何にも有能そうな雰囲気の壮年の男だった。今日の随行員は、それと比べると若くてやや頼りない印象が否めない。もっとも、ただの案内ならば誰が引き受けても大して変わるものではないだろう。
「さあ、どうぞご乗車下さい。まずは港まで御案内します」
促されるまま、俺達は馬車の中へと乗り込んだ。車内は、地味な外見とは打って変わって見た目より広く居心地の良い作りになっていた。内装にはそれなりに力を入れたのだろう。その外とのギャップに、如何にも訳ありの客人のための送迎車だと思わせられる。
「港には我が国の送迎船を停泊させております。他に乗客はおりませんので、周囲を気になさる事なくゆるりと寛いで頂けるでしょう」
「随分手間を掛けて頂いて恐縮です」
「いえいえ、これも大使の御意向ですから」
大した歓迎ぶりだ、と喜びたい所だが、実情は歓迎されているのではなくて、人目に少しでも触れさせたくないからだろう。そして、常に監視を怠っていないという意味もありそうだ。遠回しに首を絞めて来るような、如何にも外交畑らしい手口に思う。
「船とは大きいのでしょうか? 私、自分が乗ったのかどうか憶えていなくて」
ふと、レイが唐突にそんな質問をした。
「ええ。主に我が国の閣僚が外遊で諸外国を巡る際などに用いられるものです。全長は一般の定期船と同程度ですが、内装は非常に居心地良く乗船出来るよう工夫を凝らしておりますので」
そんな随行員の説明を聞きながら、レイは如何にも楽しみだとばかりに目をきらきらさせている。専用船で運ばれる意味を深く考えていないようである。もっとも、下手に勘繰って不自然な言動を晒すよりはましだろう。