戻る
編纂室へ戻るなり、俺はすぐさま持ち出し資料のまとめに掛かった。
レイが此処へ回されて来るまでに受けた聴取の記録、最新の健康診断表と医師の私見レポート、それから数少ない手掛かりとして、あの革袋に入っていた金貨数枚、そんな所がレイに関する資料だろう。あの暗殺用の短剣については、少し悩んだ後、出来る限り隠すという前提で持って行く事にした。場合によってはレイを黒蜥蜴と断定させかねないような代物だが、下手に隠し立てをした場合のリスクを考えると、カードの一つとしては持って行った方が良いと考えたからだ。それに、イライザはああは言っていたが、少なくとも短剣の事はノルベルト大使に伝わっていると考えて良いだろう。そうでもなければ、一国の大使がわざわざ密入国者一人のために出向くなど有り得ないからだ。
一通りの用意を済ませ、デスクで一服する。ふと視線を向けると、レイはソファーの隅で小さくなりながら座っていた。先程から口数が随分と少ないように思っていたが、どうやらまた何か思い悩んでいるらしい。
「準備はいいのか? いつ出発になるのか分からないんだぞ」
「いえ、私は荷物はありませんから……」
そう言われ、彼女はそもそも身一つの状態で目が覚めた事を思い出す。
「着替えくらいは準備した方がいいな。後で外へ出よう」
こくりと小さく頷くレイ。こちらの話を聞いているのかどうか、何となく朧気な様子に見えた。
「あの、サイファーさん。やはり私、皆さんに御迷惑を掛けているのではないでしょうか?」
「迷惑も何も、これが仕事なんだが」
「ですが、私のせいで余計な諍いが起きていると言いますか……」
「さっきの事なら、非があるのはイライザの方だ。放っておけばいい」
「はあ……」
いい大人の感情的な衝突を目の当たりにしたせいで、気が動転してしまっているのだろうか。無論、あの諍いに対してレイには何の落ち度も無い。あくまで焦点はレイの身元を突き止めて送還する事であって、その手段についての選択は一つではなく、その中で最良のものを選ぶのに意見が対立するのは当然の事だ。
「それで、あの、私はこれからどうすれば良いのでしょうか? 南ラングリスという国で取り調べになるので良いのでしょうか」
「あくまで聴取だけだ。俺も同席するし、場合によっては聴取そのものを止めさせる。君が黒蜥蜴の生き残りであるという嫌疑が晴れればいいのだから、そんなに深刻な事じゃない」
「ですが、あの短剣……」
革袋に入っていた、暗殺用の短剣。黒蜥蜴の持ち物のようだが、状況がまるでレイが黒蜥蜴の生き残りであるかのように思わせる。しかし、俺にはレイが暗殺稼業をしていたようにはどうしても思えない。幾ら記憶を失っていたとしても、ここまで温容な振る舞いは出来るはずがない。
「あれは先方には出来る限り伝えないつもりだ。君もそのつもりでいるように」
「でも、隠し事をするのは良くないのでは?」
「どうせ打ち明けた所で、聴取が面倒になるだけだ。自分の身元も証明出来ない者があんな物を見せた所で、なし崩しに犯人に仕立て上げられるのが落ちだ」
「ですが、本当に私は……」
何かを言いかけたようだったが、声がか細過ぎるのと途中で口篭ったせいで、最後まで聞き取れなかった。大方、自分は本当に暗殺者ではないのか、言いたい事はそんなものだろう。別段実になるような発言ではない。
「では仮に、君が黒蜥蜴の生き残りである暗殺者だったとしよう。暗殺者はターゲット暗殺のため、全身のあらゆる機能を鍛え上げている。それは分かるな?」
「はい、何となくですが」
「ならば」
俺は何の脈絡も無く、唐突に手元にあったコインをレイの目の前へ弾き飛ばした。突然の飛来物にレイは驚くものの、意外に素早くコインの動きに反応する。しかし、受け止めようとした両手はパチンと乾いた音を立てコインをこぼし、収められなかったコインは床へ落ちていった。レイは床に屈んで右往左往しながらコインを見つけ出し、幾分かかってこちらへ持って来る。少々ばつの悪そうな表情だった。
「基本的な身体能力は、記憶があろうが無かろうが関係ない。飛んできたコインを受け止めるのに、特別な技術は要らないからな。今のそれすら出来ないという事は、君は暗殺者のように鍛えられていないという何よりの証左だ」
「久しぶりで訛っているという事は?」
「たった数日でこんな事も出来なくなるものか。そこまでして、自分を暗殺者だと思い込みたいのか?」
「いえ、そういう訳ではありません。ただ……」
「ただ?」
「思い出したというか、ちょっと……」
何か感覚的な事を言い表そうとしているのだろう、レイは随分と言葉を淀ませてから、やけに慎重になってゆっくりと確かめるように続けた。
「黒蜥蜴という言葉には覚えがあると思うのです」
「君が住んでいたのがラングリスの南北どちらかなら、耳にしていてもおかしくはないだろう。特に南ラングリスは、政府要人を暗殺されているんだ。ニュースで否が応にも耳にする機会はあったはずだ」
「いえ、そういうのではなくて。あの、何か書くものはありませんか?」
そう問われ、首を傾げつつも俺は雑記帳と鉛筆を差し出す。するとレイは、すぐさま鉛筆で何かを一心不乱に書き始めた。
「出来ました。これを見て下さい」
レイが見せた雑記帳には、一つの見慣れないシンボルが描かれていた。モチーフになっているのは、蜥蜴と五芒星、そして月桂樹だろうか。やはり目を引くのは蜥蜴の絵だった。今の話の流れだと、自然と黒蜥蜴を連想させられてしまう。
「まだ少しもやがかっているので、多分正確ではないと思います。ですが、大筋は合っているはずです」
「何なんだこれは?」
「もしかすると、黒蜥蜴のシンボルマークだと思います。そして多分、内部的にだけ使う用途のもののはずです」
何故そんなものが? いや、そもそも暗殺団等にそんな自己主張の強いものが存在するのか?
一瞬酷く懐疑的にそのシンボルを見たものの、この国でもそうだが、組織や結社は通常こういったものを必ず定めるものだ。構成員の団結心を高めたり、対外的なアピールに用いたり、用途は組織によって様々だ。暗殺団のような反社会組織にそういった文化が当てはまらないかと言えば、必ずしもそうとは言い切れない。何より犯罪組織であるから団結心や裏切りには非常に過敏だろう、シンボルをそういった方面に結び付けるかも知れない。また、憎くもない人物を殺す以上は平常心を保つために、何らかの独特な精神性を求めている場合も考えられる。精神文化とシンボルは、切っても切り離せない関係だ。
「しかし、本当にそうなのか? 悪いが俺は、証明出来る事実しか信用出来ない」
「はい。私も、自分の事ですが、本当の事なのかどうなのか疑ってもいます。ただ私の記憶には、それが事実だと刻み込まれているだけで、証明するような事はもちろん出来ません」
また随分と半端で、物騒な記憶を思い出してくれたものだ。物憂げに話すレイに、俺はそんな事を思いながら溜息を付きそうになっていた。
レイが黒蜥蜴の生き残りという事は無いだろうが、密接に関わっていた人間である可能性だけは更に高まった。これは非常に厄介である。南ラングリスでどのような方針で聴取するのかは分からないが、恐らく即日逮捕ぐらいの状況も視野に入れているのだろう。そんな状況下で、黒蜥蜴との繋がりを匂わせでもしたら、そのままなし崩し的に暗殺者として扱われかねない。そんな余計な誤解を招くよりは何も知らせない方が遥かに無難、そういう方針で行くつもりでいたのだが。
レイが記憶を取り戻す度に、剣呑な事案が増えていくように思う。やはりレイの素性は、一般的な平民とはかけ離れたものだと覚悟しなければいけないのかも知れない。