戻る

 それは、イライザがラングリス両国へ問い合わせをしてから、僅か四日後の事だった。
 両国からの回答待ちで特に動く事も出来ないため、また以前の如く編纂室で暇を持て余していると、突然の呼び出しが掛かった。呼び出し元は外務庁、それもイライザ本人からだった。
 レイも同行させるようにとの事で早速イライザの元へ出頭すると、そこはどういう訳か大勢の警護兵が立ち並ぶ非常に物々しい現場となっていた。念入りなボディチェックを受けさせられてようやく入室すると、室内にはイライザの他、一人の壮年の男がソファーへゆるりとした姿勢でくつろいでいた。儀礼用の服装ではなかったが、その身形からは明らかに並大抵の身分ではない事が伺い知れた。
「紹介するわ。こちらは南ラングリスの特命大使である、ノルベルト氏よ」
「大使……閣下?」
 思わぬ人物の登場に、反射的に背筋が伸び全身が緊張する。大使と言えば、外交において一国の代表者である。その国の宰相を前にしているのと同義だ。言うまでもないが、自分のような身分の人間がおいそれと面会出来るような相手ではない。
 まさか大使が、それもこんな短期間にわざわざ出向いて来るとは。彼の肩書きだけでなくその行動の速さには、ただただ感嘆するばかりだった。しかし、イライザに頼んだのはレイの身元の問い合わせだったはずなのだが。何故、一国の大使が訪問するような事態になったのか。
「まことに不躾な質問をさせて頂きますが、閣下は如何な御用件で我が国を御訪問されたのでしょうか? 一役人である私には、閣下との接点が思い浮かばないのですが」
 ノルベルト大使は、如何にも広量そうな余裕のある微笑みを浮かべながら口を開いた。
「これは非公式の訪問であり、人払いもしてあるため、そう固くならずとも宜しい。それで本件についてだが、お互いに忙しい身の上だろうから単刀直入に申し上げよう。私は貴君の隣の彼女、その身柄を引き取りたい」
「引き取る? それでは彼女は、南ラングリスの国籍だったとう事でしょうか?」
「いや、彼女が我が国の国籍を保有しているかはまだ不明である。ただ今回の決定は、我が国におけるある事件が関係しているという判断からだ」
「と、仰いますと」
「昨年、我が国の運輸相が暗殺される事件があった。犯人は捕まっていないが、犯行声明文が出されている。草原の鍬、北ラングリスの過激派だ。しかし、ただの過激派如きに侵入されるような警備はしていない。閣僚関係者の身辺など特にそうだ。そこで浮上したのが、暗殺組織の関与の可能性だ」
「その過激派組織について、北ラングリスは何も声明は出していないのですか?」
「無論問い合わせはした。案の定、政府関与は否定したばかりか、既に組織そのものが潰された後だった。つまりこの暗殺事件は、北ラングリス政府の手引きであると推測するのが妥当であろう。その後もありとあらゆる手段を用いて裏付け調査をした結果、やはりある暗殺組織が過激派組織と接触していた事が分かった。黒蜥蜴という、寄りによって我が国の暗殺組織だ」
 黒蜥蜴。その単語に、俄かに緊張が走った。今の所レイの身元に繋がりそうな特定の名称は、ラングリスの他はそれぐらいしかない。だが、その名称を大使の口から聞くことになろうとは。
「閣下は彼女が非合法組織の関係者であると?」
「そこまではっきりとしたものではない。ただ、以後の捜査が難航しているため、あらゆる不審者や近隣の密入国者も対象にしているだけだ。何しろ黒蜥蜴は潜入を得意としていたのだからな」
 確かに、一国の貴人が暗殺された上に未だに犯人が捕まえられてないとあっては、それこそ国体や威信に関わってくる。犯人確保のためには捜査網を広げざるを得ないだろう。しかし、他国の密入国者にまで手を伸ばさなければならないほど事態が逼迫しているというのは、少々穏やかではない。
「我が国と貴国間には、犯罪者の引き渡し条約は結ばれていない。あくまで要請するだけである。協力はしてもらえないか?」
 言葉尻こそ穏やかなものではあったが、そこには拒否を許さない凄みのようなものがあった。こちらの事情などはどうでも良く、多少拡大解釈してでも言質を取り、それを盾にレイを連行する腹積もりだろう。
 視線を傍らのレイへと向ける。何処まで状況を理解しているのかは分からないが、少なくとも和やかなやり取りをしている訳では無い事は分かるのだろう、深刻な表情でうつむきながらぴくりとも動かない。膝の上で固く握り締めた手が酷く青ざめて見える。
 面倒な状況になった。
 こちらの問い合わせに対して尽力してくれるのはありがたいが、それにわざわざ大使が出向いてくれるのは正直な所有り難迷惑だ。こちらはあくまでレイの国籍が分かればそれで良く、国同士の関係をテーブルへ並べたくはなかったのだが。
 大使の口調からして、レイの身柄を引き渡した所でどのような扱いを受けるかは想像に難くない。大使が出張って来てまで連れて来た容疑者を、幾つか質問しただけで帰すなど有り得ない事だ。そもそも、これではレイの国籍の問題は一つも解決していない。もしも南ラングリスの国籍が無かった場合はどのように扱われるのか。それは南ラングリスの内政の問題だから口を挟む立場ではないが、そうなると分かっていて彼女を放り出す訳にはいかない。
 だが、俺自身の信念はともかく、たかが一役人がどうすれば大使の要請を拒否出来るのか。言葉で拒絶するのは簡単だが、それは相手に次のカードを切らせる機会を与える事にもなる。それに、自分が焚きつけた事で自国の問題にするような事態は避けたい。となると、最善の策は相手の要求を飲みつつも、手綱を取らせない事か。
 意を決し、口を開こうとしたその間際、ふと大使の傍らにあるイライザへ視線を向ける。イライザは俺の表情を見て何か察したのだろう、見る間に顔色を変えていった。