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 革袋に入っていた、暗殺用の短剣。レイは食い入るようにそれを見た。
「あの、触っても良いでしょうか?」
「ああ、構わん」
 恐る恐る指を伸ばし、まるで熱いものを触るような手付きで短剣を手に取る。そして、再びじっと食い入るように見つめる。角度を変えてみたり、縦に静かに上下させて重さを確かめたり、短剣の特徴を一つでも多く掴もうと一心不乱になっている。果たして彼女の閉ざされた記憶が刺激されるのだろうか。そんな希望的観測でレイの様子を眺める。
「抜いて見ても良いでしょうか?」
「慎重にな」
 短剣を扱う経験がなかったのか、それとも何か記憶が刺激されているのか。緊張した面持ちのレイはふっと一息つき、血の跡の残る短剣の鞘と柄に手をかけてゆっくりと抜きにかかる。かちりと留め金の外れる音と共に、少しずつ鞘の中から刀身が露わになる。改めて見るその刀身は、やはり普通の短剣とは違うコンセプトで作られているのが分かる。刃は片刃で紋様の無い直刃、光を反射し難くするため曇りの焼入れが施されている。刀身は非常に薄く磨かれており、到底一度の切り結びにも耐えられないだろう。レイの力で軽々と持てる事から、短剣自体の重さは相当に軽い。これは標的を力で圧し切るのではなく、速さと鋭さで的確に急所を突くための作りだ。素人ではリンゴを剥くぐらいにしかならない、まさに専業のための短剣である。
「何か思い出せそうか?」
「何となく……」
 レイはぼんやりと刀身を見つめながら、曖昧な返事をして返す。やはり何か感じる所があるのだろう。俺はしばらくそのままにしておいた。
 その間、昨日から持ち越している金貨の照合を始める。まだ資料の半分にも達していないが、確率的にはそろそろ当たる頃合いだろうとは思う。
 資料をめくり、刻印と照らし合わせて合否を判断し、そして再び資料をめくる。手も目も同じ挙動を繰り返していると、やがて動作そのものが機械的になって来る。無意識の内に作業を続けられるようになるのだが、その分思考には雑念が入り余計な事を考えがちになる。ここへ飛ばされる前は、裏帳簿の照合などで良くこういった状態になっていた。精神衛生的はこうなっている方が良い。本当に辛い状況になると、雑念すらも集める事が出来なくなるのだ。
 空いた思考で、時折レイの様子を盗み見る。レイは相変わらず視点はぼんやりとしているが、短剣を手に取ってしきりに何かを思い出そうとしている。記憶を取り戻す事に必死なのだろうが、本人には悪いが、傍目から見るとそれは実に滑稽な様子だ。自分には記憶喪失の経験はないものの、実際にそうなるとどうしたら良いのか分からなくなるだろうから、俺でもああいった事をしてしまうのかもしれない。
「む」
 しばしそんな状況が続いた後だった。ふと、半分無意識で作業を続けていた目が唐突に資料と金貨の刻印の一致を認め、動いていた手と目が止まった。念のため表裏の形などを慎重に確認するが、確かにこの金貨と一致している。流通国の名前は、資料には北ラングリスと記されている。地図で確認すると、案の定、アスルラの隣に位置している。ラングリスは元々アスルラの一都市で、それが内戦で独立、更に内戦で南北に分裂して今に至る経緯がある。元々は同じ国だったのだから、食文化も似ていて当然だろう。
 他の金貨の刻印も照合してみるが、いずれも過去に発行されたものか、若しくはラングリスに併合された国のものと一致する。これで金貨の出所に関しては確定したと言っていいだろう。となれば、調査は次の段階へ進められる。
 今現在、我がセディアランドと北ラングリスとの国交はあるのか。連合内での位置付けや、外交の専任担当者はいるのか。新たな課題は、そういった北ラングリスとの外交関係になる。我が国との友好関係があれば、事情を説明して身元の照会や調査もスムーズに行えるのだが、そうで無ければ細々とした面倒な手続きを幾つも踏まされかねない。それだけなら良いが、一番避けたいのは無関係の外交問題に飛び火させるような事態だ。今後は、外交感覚のある識者の協力が不可欠である。
「レイ、金貨の出所は分かったぞ。そっちはどうだ?」
「はい……多分なんですけど」
「何だ?」
「私は、この国よりももっと温かい国に居たと思うのです。それに、海が見えていたと思います。多分ですけれど」
 北ラングリスは確かに海に面しているし、緯度的にもセディアランドよりは温暖な所に位置している。筋は通っているから、単なる思い込みや勘違いではないだろう。
「金貨の出所は、北ラングリスだ。聞き覚えはあるか?」
「えっと……あるような、ないような……。すみません、良く分かりません」
「まあ、そう簡単に思い出せるものでもないだろう」
 だが、有力な手掛かりには違いない情報である。この線での捜査は決して無駄にはならないだろう。
 照合も済んだため、デスクの金貨は全て革袋の中へ戻すと、一番下の引き出しへ放り込んで鍵を掛ける。これだけの大金を古びたデスクの引き出しに、しかもちゃちな鍵だけで保管するのはおかしな事である。もっとも、誰かに打ち明けた所で、実物を見ない限りは信じないだろう。それに、下手に大金が関わっていることが知れ渡ると、レイの縁者を騙る詐欺の手合いが内外から溢れて来るので、非常に厄介なのだ。正式な手続きを踏んで保管庫へ仕舞うより、密かに隠し持っていた方が都合が良い。
「サイファーさん、北ラングリスとはどの辺りになるのでしょうか?」
「そうだな。そこに地図があるだろう。まず、ここがセディアランド、この国だ。そして北ラングリスは此処になる」
「そんなに遠いという訳でも無いのですね」
「直線距離で考えればな」
「どれくらいかかるのでしょうか?」
「さて、まあ航路があれば二日といったところかな」
 直行便があるならば、旅程自体はさほど苦にはならないものになるだろう。やはり問題は物理的な距離ではなく、法的な距離になるだろう。 ふと、俺は一つの疑問を抱いた。北ラングリスとセディアランドは地続きになっていない。ならばレイは、一体どのようにして聖都まで辿り着いたのだろうか。旅行者として正規の入国をした後、何らかの理由で身分証と記憶を失った、と考えるのが妥当だろう。素人があの荷物で密航は少々考え難い。けれど、仲介した闇業者がいる可能性もある。その場合だと足取りを辿るのは難しいだろう。
 やはり今後の行動も考えると、専門家の協力が必要だろう。心当たりはあるものの、あまり気は進まない相手だが。