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「私の勝手? 一体それは……」
リチャードの疑問に、ドナは明確には答えなかった。そしてその代わりに、俺とゴットハルト氏の方へ新たに番えた矢を向ける。
「剣を置き、この試合の終結を宣言して下さい。もう、これ以上無駄に争う必要はありません」
「待って下さい、ドナ書記官。全く事情が見えません。何故、今更この決闘を止めるのですか? セルギウス大尉の件と、何か関係があるとでも?」
「サイファー殿、貴方は私の代理として決闘に臨んで頂きましたが、そのお気遣いは必要無いという事です」
確かにこれは、元を質せば、リチャードがドナをゴットハルト氏との決闘に応じさせたくないための、苦し紛れの代替え案である。確かに決定にはドナの同意は無かったかも知れないが、今になってそれを本人に覆されても、オレにしてみれば困惑するばかりだ。
「ならば、予定通り私との決闘に応じて貰うぞ」
剣を置くべきか否か、先行きの見えない中で展開を読もうとしていると、ゴットハルト氏はドナの警告など聞く気も無く、再び剣を杖に足を引き摺りながら歩み寄って行った。
「下がって、剣を置いて下さい。既に警告した筈です」
「だからどうした。私は、お前を斬って捨て、息子の恥辱を濯ぐ事しか興味はない!」
左肩からは次々と鮮血を流し、ぜいぜいと引っ掛かりのある荒い呼吸をしながら、自力では歩くのが精一杯といった様相のゴットハルト氏。けれど、満身創痍とは思えないほど研ぎ澄まされた殺気を未だ放っている。真っ赤に血走らせた目には、もはや憎い仇であるドナの姿しか見えていないだろう。その溢れ出る殺気は全て、矢を番えるドナへ向かっている。しかし、明らかに警告を無視しているゴットハルト氏に、ドナは次の矢を放とうとはしなかった。大弓の威力では、次に射れば命まで奪いかねないと思っているからだろうか。何にしても、ドナにはゴットハルト氏を殺せない理由があるようである。
「ゴットハルト殿、一旦待って下さい! ならば、一度日にちを改め仕切り直した方がいい! 今のまま対しては、貴方の方が不利だ!」
「構うものか! これ以上、恥を残しておく訳にはいかぬのだ!」
仇敵の首魁とでも言うべきリチャードの説得になど応じる筈もなく、ゴットハルト氏は足を引き摺りドナの元へ向かう。力ずくでも止めるべきだ、そう理性では分かっていたが、既に感覚が日常を思い出してしまっている俺は、その場からただの一歩すら踏み出せなくなってしまっていた。むしろ、今となっては恐怖心の方が強い。つい先程まで繰り広げていた、本気での命のやり取りという異常な行為に、今になって恐怖し始めたのだ。
しかし、このまま見過ごす訳にはいかない。一寸悩んだ後、一か八かのつもりで更なる説得に乗り出す事にした。
「剣を奮うのは、今回の事件が何故起こったのか、それを明らかにしてからでも遅くは無いのではありませんか? 貴殿は、当初からそれを知りたかった筈です」
すると、思いの外今の言葉が功を奏したのか、ゴットハルト氏は一旦ぴくりと体を震わせると、幽鬼のような足取りをそこで止めた。
「真実……か。今となっては、それを知ったところで息子は還らぬ」
「しかし、このまま事実を知る者を全て葬り去っては、真相は永遠に闇の中です。知っておくべきでは無いのですか? 少なくとも、事件に関わった者達だけでも」
ゴットハルト氏はしばし黙りながら考え込んだ。ひとまずはうまくいったと俺は思った。一度冷静になって考える時間が出来れば、往々にして人は感情的な行動には出なくなるものだからだ。
その読み通り、ゴットハルト氏はやや落ち着いた様子で姿勢を直すと、前方で大弓を構えるドナを静かに睨み付けた。
「貴様、自分の勝手に巻き込みたくないなどと言っていたな。どういう意味か、詳しく話して貰おう」
ドナは即答せず、矢を番えたまましばし考え込んだ。俺は行動を促すように、わざと自分が手にしていた剣を音を立てて床に放って見せた。すると、それでようやく決心がついたのか、ドナは大弓をゆっくり下ろし、引き絞った矢を緩めた。
「私は、ただ決闘同好会という違法な組織の存在を表沙汰にし、封殺の出来ない規模で騒ぎが起こればそれで良かったのです」
「ただ騒ぎを起こしたかっただけだと? 貴様は、リチャードの腹心ではないのか。それとも、本当は誰かに雇われた間者か?」
「いいえ。全ては私が、私の意思で、私のためにした事です」
つまり、意図的にリチャードを陥れたという事だろうか。だが、それが何故ドナのためになるのだろう?
誰かに雇われてした事ではない。となると、次に考えられるのは―――。
「己のためか。ならば、何の恨みだ?」
「それも違います。私は、リチャードを心から愛している、恨みなんてものはありません」
「ならば、何故その想い人を陥れるような真似をする。想い人には誠を尽くすものであろう」
「それは……」
ドナは躊躇いがちに、静かに答えた。
「リチャードに、私と同じ所まで落ちて貰うためです」