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ここ数日は日長駆けずり回っていたせいか、突然と手が空いてしまうと、逆にどう過ごしたら良いのか戸惑ってしまう。
自室でレポートの残りを作成するものの、それも程なく終えてしまい、いよいよする事が無くなってしまった。
何か集中出来る事が欲しい。そう心底思う。冷静になってみると分かるのだが、俺が出したあの提案は、あまりに馬鹿げた内容である。自分がゴットハルト氏に決闘を申し込む、それは決闘同好会の存在を知った時に抱いた心境を、そのまま今の自分に対して向けられる程の暴挙だ。決闘とは、文字通り互いに命を懸ける戦いである。しかも決闘同好会のそれとは違い、ゴットハルト氏の言う所の決闘は文字通りの命懸け、どちらかが死ぬ事でしか決着しない。よくもそんな危険な提案を安穏と口にしたものだ、我ながら呆れかえる思いである。
冷静になればなるほど、決闘が怖くなる。基本的な武器の扱い方は、新人研修の時に一通り仕込まれる。だが、それ以後は実戦らしい実戦は経験しておらず、ましてや一対一の決闘など研修にすらなかったシチュエーションだ。だから、あのラングリスでの体験よりも強く危機感を覚え、果たして正しい提案だったのかと疑問符すら浮かんでくる。
昼が過ぎても食欲は湧かず、俺は一人ベッドの上で横になり続けた。明日はこのように寝ていられないかも知れない。それどころか、命を落とすかも知れない。そうやって命を意識すると、途端に恐怖心が込み上げてくる。結局のところ、その自覚が無いから安易に提案をしてしまったのだ。俺にはゴットハルト氏のような覚悟は無い。命と引き換えに出来るほど、この仕事に入れ込んでいる訳ではないのだ。仕事だから、そういう契約だからこなす、そんな割り切りで今の仕事もしているが、それがいわゆるセディアランド人の気質なのだろう。
ぼんやりとした思考で手を宙に伸ばし、ルイの体を思い出す。もう随分と触れていないが、手のひらに残る感触は未だに思い出せる。いつも健気で甲斐甲斐しい妻、今こうして俺が勝手にこんな決断をしている事を知らないだろうが、もしもそれを知ったなら、そして最悪の結末を迎えてしまったなら。一体どんな顔をするのだろう、そう想像し始めた所で、自分はなんて後先を考えない事を言ってしまったのか、はっきりと明確に後悔の念を浮かべた。
ゴットハルト氏との決闘以外に、何か手段はないのだろうか。ベッドに寝転がりそんな詮無い事を考えながら、ひたすら時間を浪費していた時だった。時間の感覚が無くなりかけていた頃、突然と部屋のドアがノックされた。反射的に跳ね起きると、それはリチャードが結論を出した報せだと戦慄し、一旦深呼吸して気持ちを落ち着けた上で返答しドアを開ける。そこに立っていたのは、ドナだった。
「結論は出たのでしょうか?」
「いいえ、まだ。公使は、サイファーさんの考えを聞き取るように、との仰せですので」
つまり、質問はしたいが面と向かっては訊ねられないという事だ。
ドナを室内へ入れ、応接スペースに向かい合って座る。彼女は平素と変わらぬ淡々とした面持ちで、そこから今の執務室の様子は窺い知れなかった。どの道、わざわざ聴取に来るくらいなのだから、紛糾はしているのだろう。
「それで、何をお話すれば良いのでしょうか?」
「サイファーさんは、本当にゴットハルト氏に決闘を申し込まれるのでしょうか」
「ええ。他に妙案が無いのでしたら」
こちらの意志は固い。殊更それを強調する。するとドナはおもむろに袖を捲り、腕の傷を見せて来た。前にも見た、ドナが決闘同好会の活動で作った怪我だ。
「決闘には万が一というものがあります。本当に宜しいのですか?」
「ええ。非常時ですから」
ゴットハルト氏との決闘は、むしろその万が一でしか決着はつかない。この程度の怪我では、決着とは見なされないのだ。
「僭越ではありますが、奥様はよろしいのでしょうか? ストルナ市には、調査の仕事で来たはずでしょう」
「国事ならば、仕方ありません。後の事は、何も言わずとも閣下が良くはからって頂けるはずですから」
ルイの事を引き合いに出されると、やはり心が大きく揺らぐ。ルイは当然、俺が命懸けの決闘をする事など知る由もない。万が一俺が命を落としたりすれば、当然悲しむだろう。俺もそういった事態は避けたい。だが、他に方法が無い以上は、こうする他ないのだ。理解は求めないが、ルイには受け入れて貰うしかない。
俺は少しも揺るがない。実際は揺らいでいるため、殊更そういう体を強調する。
「当事者の台詞ではありませんが……、あなたは私の身代わりになるのです。本当にそれで宜しいのですか?」
「失礼、まるで私に止めて貰いたいと言っているように聞こえますが」
虚を突いたか、ドナは一瞬驚きの色を浮かべる。
「私は、ただ……あなたに申し訳ないと」
「公使を守らねばならないのですから。これも仕事です」
「しかし、命を危険に晒してまで……それは、良い事なのでしょうか」
そう言い淀み、ドナは口を閉ざして視線を俯ける。言いたい事が言えずにいる、何かを溜め込んでいるような仕草だ。
まるで、俺にゴットハルト氏と決闘をするなと言わんばかりのドナの言動、一体何を訊ねているのだろうか? 本当は、何か言いたい事が別にあるのではないか。そう思えてならない。
「……それで、本件ですが。公使はサイファーさんにお任せする事に決定いたしました。つきましては、あなたを臨時で決闘同好会に迎え入れます。外部へ発表する訳ではありませんが、非公式の処理として、あくまで問題を起こした決闘同好会が決着をつけたという体を取るためです。異論が無いようでしたら、こちらに署名を」
ドナは一枚の羊皮紙を取り出してテーブルへ広げる。中心には、ハートと剣をモチーフにしたシンボルマーク、その周囲には不規則に名前が幾つか散らばって記述されている。序列が分からないような署名だ。俺はすぐさま空いたスペースに自分の名を書き記す。ドナはそれを、何を言うでもなくじっと見つめ続けた。
「何か?」
「いえ、失礼しました」
ドナは目を伏せながら羊皮紙を手に取って、丁寧に丸め紐で括る。しかし、いつもは淀みなく動くその指は、僅かに震えぎこちなさがあった。
「では、私はこれで」
そう言ってドナは席を立った。直後、俺はそれを呼び止める。
「一つ、聞かせて下さい」
「何でしょう?」
「ジョエルの手帳と、セルギウス大尉の日記。あれに書かれている事は事実なのですか?」
ドナは一旦動きを止め、そのまま沈黙する。そんなに答え難い事だっただろうか。俺は更に重ねて沈黙の意味も問う。
「ゴットハルト氏の言い分に、身の覚えがあると?」
沈黙は続く。しかし、無為な沈黙ではなかった。ドナは口を頑として閉ざしたままではなく、咀嚼するかのように、しきりに何かを言いかけ唇を開閉している。それは、言い分があるものの、言い出せない事情があるからなのか。
どういった事情があるにせよ、明確に否定しないという事は、明らかな嘘ではないという事だ。ジョエルの妄執とセルギウス大尉の関係、そしてそれを根本から覆してしまうゴットハルト氏の主張。ドナはいずれもはっきりと否定しない。するとまさか、ゴットハルト氏の主張もまた事実なのだろうか―――。