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ジャイルズの案内で、新館の地階へと降りていった。此処は職員の出入りを制限している場所で、機密事項を扱ったり、重要な会議などを執り行う場合に用いられている。以前、決闘同好会のメンバーとの顔合わせのために夕食会へ招待されたが、その時に使った部屋も同じフロアにある。実際の所、リチャードが表に知られたくないような事をするのに使う、ほぼ私有化したフロアと呼んでもいいだろう。
ゴットハルトが拘留されている部屋は、地階のほぼ中央に位置する、取り分け広そうな客室だった。部屋の前には武官が二人配置され、油断無く警備と監視を行っている。中の人物がどういう素性の者か知っているのか、二人とも非常に緊張した面持ちで就いていた。武官達は連日アクアリア兵達と睨み合いを続けているが、それが将校クラスが相手となると、やはり印象も変わってくるのだろう。
「私は此処で待機しております。どうかくれぐれも、宜しくお願いします」
「ええ。何とか良い方向へ運んでみせます」
取り分け自信も根拠も無かったが、とにかく交渉で一番やってはならないのは、相手にこちらの弱気を知られる事である。例え根拠の無い言葉でも、そう自分を鼓舞していかなければ、この難局を切り抜けられそうにない。
入室の確認した後、出来るだけ堂々と振る舞いながら部屋の中へと入る。その部屋は流石に貴賓のために設えただけあり、間取りは広く調度品も豪奢過ぎない程度に整えられていた。その一方で、暖炉の排煙口と天井付近に空いた小さな通気孔を除いて、外部と繋がっている場所が無く、妙な窒息感や閉塞感は否めなかった。
「ふむ、夜分にすまんな」
ゴットハルトは、中央に置かれたソファーに腰だけを下ろし、杖で体重を支えるやや前屈みの姿勢を取っていた。突然襲われても対応出来るよう、普段から脱力した姿勢は取らないよう心掛けているのだろう。
「驚きましたよ。まさか突然このような事をされるとは。事前に一言でも言って下されば、予め手配も整えておきましたが」
「貴殿を信用していない訳ではないのだよ。ただ、あくまで私はアクアリア人で、貴殿はセディアランド人。そういう事だ」
相変わらずの強い気迫に緊張しつつ、俺はゴットハルト氏の向かいのソファーへ腰を下ろした。改めて彼と相対してみると、その強い気迫に押され自然と自分が畏縮しそうになるのが分かる。年齢は倍以上も離れ、とうにピークは過ぎたはずの老体、しかも杖を付かねばならない足である。どう考えても、単なる取っ組み合いならば負ける要素はない。けれど、そうする事すら体が躊躇ってしまうのは、それだけ潜り抜けてきた場数の差がそうさせるのだろうか。
「まず、亡命の理由についてお聞かせ願えますか。セディアランドとしても、亡命者の無条件受け入れが条約にあるとは言え、目的の明確ではない者をいつまても抱える訳にはいきませんから」
「時に……反公使派の素性は掴めたのか?」
「いえ、ですから」
ゴットハルトの眼差しから、じろりと強い眼光が放たれる。反射的に喉が詰まり、一瞬呼吸の仕方を忘れてしまうほど、強い威圧感を感じさせるものだった。
「私の目的は、今も何一つ変わっておらん。死んだ息子の無念を晴らす。それ以外に無い」
「何故、それがセディアランドへの亡命になるのですか?」
「息子の魂が夜な夜な傍らに立って、その無念さを私に訴えかけるのだよ。親として、男として、これほど悲しい事はない。私は、もうゆるりと待っている事は出来んのだ」
「しかし、だからと言って……」
無念に思う気持ちは分かるが、亡命という手段を取ってまで総領事館に押し掛けたとしても、状況は何一つ好転などしない。むしろ、この事を知った真犯人が逃げ出す算段を練り始める危険すらある。歴戦の猛者にしては、随分と事を急ぎ過ぎたように思う。やはり、私情のこととなると判断力も鈍るのだろうか。
「貴殿は、魂の存在を信じておるか?」
「魂ですか?」
魂、霊、それはしばしば宗教や哲学の分野において、肉体と対になる存在を表すのに用いられる。厳密には、肉体、魂、精神の三つだが、俺には魂と精神の区別が未だに良く分からない。まさか、その曖昧な何かに衝き動かされ、このような事態を引き起こしたというのではないだろうか。俺に言わせれば、そんなものはヒステリーや現実逃避の一種にしか過ぎない。心身が参った事で幻覚や幻聴を体験するのは、俺にも経験がある事だ。
「まあ、良い。何れにせよ、私のやらんとする事は変わらない。貴殿には引き続き捜索を頼んだ」
「それは勿論ですが。しかし、僭越ながら申し上げますと、貴方は少々焦り過ぎてはいないでしょうか? 多かれ少なかれ、貴方の亡命の事は総領事館中に知られます。そのせいで、かえって先方が萎縮するか、若しくは逃げ出す恐れすらあります」
「心配は要らん。そのような事はあり得んよ」
「有り得ない?」
自信たっぷりに答えるゴットハルトに、思わずオウム返しに問い掛ける。いささか不躾だったと省みるが、ゴットハルトは幾分も気には止めず、相変わらず厳しい表情のままに語った。
「私は、何処の誰が息子を謀殺したのかまでは知らん。だが、その者が今も此処に居る事、そして些細なことでは離れる事が出来ないことを知っているのだ」
「随分と曖昧な表現ですが。それはどの筋からの情報なのですか?」
すると、その時だった。おもむろにゴットハルトは、更に上半身を乗り出すと、俺の方をより食い入るように凝視して来た。
「息子だ。息子は、今でも時折私の側に現れ、何事かを訴えかけて来る。此処に息子を謀殺した輩が居る事も、そうやって息子が教えてくれたのだ」
鬼気迫った表情で切々と語るゴットハルトに対し、俺はすっかり言葉を失っていた。先日の会談の時はこれといって違和感を感じてはいなかったのだが、今の彼は明らかに常軌を逸している。それは気迫とは別な意味で薄ら寒さを、そして僅かに同情を誘うものだ。
死んだ人間が、生きている人間に何かを伝えようとするなんて、そんな事は有り得ない。しかし、ゴットハルトは少なくとも自身に起こった出来事をそうと信じ切っているようである。俺は、あまりに真剣な様子をまじまじと見せつけられ、どう答えて良いものかしばし言葉を探さなければならなくなった。