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 その日の朝は、昨日を上回る寒さに身悶えしそうになりながらベッドから出る事になった。カーテンを開けて窓の外を見ると、総領事館の中庭は昨日を遥かに上回る積雪だった。あの晩、俺は同じ窓からジョエルの遺体をこの目で見たのだが、既に何処に横たわっていたのか分からなくなるほどの雪が積もり、景色も変貌している。元々温暖なセディアランドは雪などほとんど降らず、これまでずっと縁遠かったものではあった。この単なる雨の結晶がこうも景色を変えてしまうものだとは、思いも寄らなかった。雪は時に人を殺す事もあるが、本当にさり気なく日常に這い寄ってきて、気が付くと心臓を握り締められているものなのかも知れない。
 寒さのせいで普段より早く目が覚めたが、二度寝をする気分にはならず、身支度をした後そのまま食堂へと降りた。時刻も時刻のため誰もいないかと思ったが、既に暖炉には火が焚かれて部屋は暖まり、朝食を取っている職員が既に数人ほど見受けられた。総領事館が多忙な事は知っていたが、此処も御多分に漏れないらしい。
 あまり目立たぬよう周囲を窺うと、食堂の中央の席にドナとジャイルズが同席しているのを見つけた。二人は普段はこんな時間に朝食を取っているのだろうか。そんな疑問が浮かび、このまま気付かぬ振りをするのも角が立つと思い、厨房にブルーノの姿が見えない事を確認した後、普通の朝食を受け取って二人の同席するテーブルへと向かった。
「あら、お早いですね」
 近づく俺の姿に、先に気づいたのはドナだった。と言うよりも、先に声を掛けたのがドナの方だったとした方が正しいだろう。ジャイルズは明らかにこちらに気付きながらも、あたかも気付いていないといった素振りを見せていた。
「お早うございます。お二人とも、随分とお早いですね。いつもこの時間に?」
「ええ。朝が一番仕事を片付けやすいですから、時折こうして早く出ます」
 理事官や書記官の専門的な仕事は、正直なところあまり分からない。ただ、セディアランド大使館でもそうだったが、とにかく常日頃から時間に追われている印象がある。俺も決して秘書官としての仕事をなおざりにしている訳ではないが、彼らの多忙ぶりを見ていると時折申し訳なさすら覚える事がある。
「ジョエルの件で、色々と調査をされているようですが。昨日は何か進展がありましたか?」
「いえ、まだこれと呼べるものは特に。まずは彼の事件当日までの身辺を洗い出そうと思っています」
「ジョエルは独房にずっと拘置されていたのでは?」
「ええ、それはそうなのですが。聞き込んでいると、どうも彼に何かしら心境の変化があったようで」
「元々は自死するつもりは無かったと?」
「恐らくですが。大使秘書官である私に疑いを持たせるためなら、一応の説明も付きます。何にせよ、どうにか反公使の存在を探り当てなければなりませんから、些細な手掛かりでも縋るしかありません」
 ジョエルの自殺については、今の所どちらとも断定されない、宙に浮いた状態になっている。クレメントは公使に悪い噂が立つのを恐れて、早々に自殺として片付けたがっている。けれど、俺やドナもそうだが、何よりアクアリア軍の代表であるゴットハルトまでもが、これを不審死と捉えている。反公使派というのは仮の表現だが、実際それに相当する何者かが居るのは確かである。これを明らかにするのが、今の俺の急務だ。
「こういう状況ですのでジャイルズさん、公使の身辺はなるべく警戒をお願いします。もしかすると、本人に直接手を出すような強攻策に出る可能性も否めませんから」
「問題はありません。私は常日頃からそういった心構えですから」
 ジャイルズは憮然とした態度で、こちらを一瞥する事もなくコーヒーを飲む。その仕草も、迂闊に手を出せない一種の威圧感のような物があった。常に警戒し、油断する事のない振る舞いを徹底しているようである。理事官というより警護官に近いのでは、と俺は思った。
「ところで、ジャイルズさんはストルナ市勤務が長いそうですね。セディアランドに帰省される事はないのですか?」
「私は孤児院の出身ですので」
「いえ、レイモンド家の方は?」
「公使が帰省されるのであれば、私も同行します」
 つまり、ジャイルズには公私が無いという事だろうか。それほどにあのリチャードに対して心酔しているのだろう。
「サイファーさん、その探るような質問は止めて頂きたい。何か訊ねたい事が他にあるのでしょう?」
「失礼しました。いえ、あなた方が皆、公使とは何らかの縁類関係にあると分かったので、それで」
「公使は、政敵も多い身の上ですから。信頼出来る人員を集めるとしたら、そうなる事も無理はないかと」
「ええ、そうでしたね。クレメント理事官も公使の幼なじみだそうですし。では、何ジョエル氏とセルギウス大尉は何故?」
 周囲の耳は無く、声も抑え、表現も出来るだけ遠回しにしたつもりだった。だが、次の瞬間には二人はぴたりと動きを止め、動揺を隠しているとしか思えない素振りを見せた。
「活動と業務とは、また別の話ですから。場所が場所ですし、その話はこの辺りでお願いします」
「すみませんでした。昨日は様々な情報が集まったので、まだうまく整理出来ず、つい」
 申し訳なさそうに振る舞ってみるが、二人は憮然としたままそれぞれ普段と変わらない様子を繕って見せた。決闘同好会の秘匿性はそうだが、ジョエルの存在はどうしても不自然に思うのが現状の見解である。それについて、もっと込み入った話を切り出したいところだが、二人の反応を見る限り此処では難しいだろう。
 これまでずっとジョエルの身辺については触れて来なかったが、そこに事件の真相を突き止める手掛かりがありそうに思う。この、リチャードを筆頭に名を連ねる決闘同好会の面々もまた、決して後ろ暗い事は無いとは断言出来ないはずなのだ。