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アクアリア軍の使者が迎えにやってきたのは、翌日の昼より少し前の事だった。未だに警護武官とアクアリア兵士の睨み合いが続いている正門に、見覚えのある馬車が停められていた。俺がストルナ市へ着いた日に、総領事館まで送ってくれた馬車と同じもののようだった。そして、馬車のドアの前には、甲冑ではなく軍の礼服に身を包んだ一人の男が立っていた。
「セディアランド大使秘書官のサイファー殿ですね」
「はい、そうです。ゴットハルト殿からの書面を戴いています」
俺は、昨夜受け取ったアクアリア軍の封蝋がされた便箋を男へ提示する。男は特に封蝋をじっと見詰め、確認が取れたのかすぐに馬車の中へ促された。
馬車の内装は、非常に簡素で最低限の乗り心地しか考慮されてないものだった。如何にも軍事用の武骨なものである。
「ゴットハルト殿は、市外の宿営地におります。ここからは十数分程かかります」
「分かりました。市内に滞在されていたのではないのですね」
「これはあくまで私闘であるため、市民への負担は最小限に留めたい。そういった配慮です」
馬車が走り出し、車内では彼と二人、どこか牽制し合うような心境で膝を交える。宿営地は機密ではないのか、目隠しされる事もなかった。しかも手荷物の検査もされない。腰には相変わらず護身用の短剣を忍ばせているが、それに気付いているのかいないのか、特に指摘もされない。
俺を、あくまで対等な立場の使節として扱うつもりなのだろうか。
やがて馬車はストルナ市を抜け、近郊にある森を切り開いた平地へ着いた。そこは如何にも軍の駐屯地といった雰囲気でテントが並び、各種兵站が積み上がり軍馬も相当数が見受けられた。その周辺は、ストルナ市とは比べ物にならない数の武装した兵士が、警備体制を敷いている。彼らの指揮官が此処にいるのは明白だろう。
馬車は駐屯地の入り口で停められる。車両から降りると、既に大勢の兵士が詰め左右にずらりと並んで、一本道を作っていた。これが自国の兵士なら壮快な気分にもなるだろうが、他国の、それも総領事館を包囲中の軍とあっては、嫌でも悪い想像ばかりが頭の中で膨らんでくる。
「ゴットハルト殿はこの先でお待ちです。さあ、参りましょう」
彼の案内で駐屯地へ足を踏み入れる。敷地内には幾つものテント、そして仮設住宅までもが建てられていた。これだけの規模の部隊を長期に渡って運用するのに、よくも兵站が持つものである。フェルナン大使はゴットハルト氏を首謀者と見ているが、これは一個人の私怨だけで動いていないのは明らかと見て良いだろう。アクアリア軍の本部は、この事態は既に織り込み済みであり、むしろ積極的に支援しているに違いない。ゴットハルト氏の真意は分からないが、クーデターを本気で画策しているとしたら、それはむしろ本部の現役将校で、ゴットハルトは単に利用されているだけなのかも知れない。
「こちらです」
おおよそ駐屯地の中心だろうか、そこには周囲より一回り大きな仮設住宅が建てられていた。見た目こそ単一の配色で何の飾り気も無く、有り体に言えばみすぼらしい建物なのだが、低く広く重心を取った構造、周囲に備えられている簡易的な塹壕の部品、金属板を貼り付けた倉庫が併設されている事などから、実用性ばかりを徹底した建物である事が伺える。まず間違いなく軍用品で、ゴットハルト氏の支援者は軍の中でもかなりの有力者なのではないかと推測出来る。
案内されるまま、建物の中へ入る。玄関から細い一本廊下を抜けると、ほぼ建物の大半を占めるであろう広い一間に辿り着いた。これも戦術的な意味のある構造なのだろう。あまり詳しくはないが、万が一襲撃された際に、数で劣っていても戦えるような構造なのだろう。
「よくぞ参られた。あなたがサイファー殿か?」
広間には、年季物らしい樫のテーブル、そして同じ樫の安楽椅子に腰掛ける、一人の老人の姿があった。その老人は長い白髪を後ろで束ね、同じ色の髭をたっぷりと口元に蓄え、手慰みのように弄っている。軍の制服を身にまとい、背後の壁には儀礼用と実戦用それぞれの片手剣が飾っている所から、如何にも軍人らしい体裁を作っているようだった。だが軍人としてはいささか体型が細く、飾ってある剣などとても扱えるようには見えない。その上、椅子の肘置きには杖も掛かっており、恐らく足も悪いようである。退役後に体が衰えたのだろうか、目に見えて覇気も薄く、威圧感どころかむしろこちらが気を使いかねない姿だ。とても前線で指揮する人間には見えない。
「はい、不躾な申し出を受けて頂き、感謝いたします。あなたがゴットハルト殿でしょうか?」
「如何にも。この部隊の総指揮者である」
小柄の割に、はっきりと良く通る声で返答する。声がはっきりしているという事は、少なくとも体力はそこまで落ちてはいないのかも知れない。
しかし、まさかこの枯れ木のような老人が、あの大部隊を率いているゴットハルト氏だと。あまりに予想外の姿に、俺は少なからず困惑を隠せなかった。ゴットハルト氏は北海の荒鯨の異名を持ち、退役後も人望の厚い人物と聞いている。そのため、筋骨隆々とした横柄で武骨な人物を想像していたのだが。確かに人望はありそうではあるが、それは単に軍人としてのカリスマ性に拠るものではなく、彼自身の情け深さに拠るものだろう。
「案内、御苦労。後は二人だけで話がしたいから、下がって宜しい」
「ハッ、失礼致します」
非常に穏やかな命令口調で、俺を案内した軍人を下がらせる。あまり軍人らしくないと、己の勝手な物差しで測りながら思ったが、あの態度からするとそんな事など関係なくなるほど人望があるのかも知れない。この人望という物は非常に厄介で、時に非論理的な行動に人を走らせる事がある。たとえゴットハルト氏が穏やかな人物だとしても、決して侮る事は出来ないだろう。そもそも、彼は既にストルナ市ごと総領事館を包囲するという暴挙に出ているのだから。
「では、早速話を伺うとしよう。そこに掛けたまえ」
「失礼します」
俺は一礼した後、ゴットハルト氏と向かい合う椅子に腰掛けた。座る時、腰に忍ばせている短剣が当たったが、この様子ではこれの世話になる事態はないだろう、そう一抹の不安を排した。