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 大使館関係者の宿舎は、大使館と同じ区画内に建ち並んでいる。大使館に従事する職員の内、セディアランド出身者の数はおよそ二百名。そのほぼ全ての世帯分ある住宅地だけあって、広さは小さな村程度もある。また、敷地内には様々な商店や施設が揃っており、領外へ出なくとも十分生活が出来るように整えられている。セディアランドから小さな町をそのまま持って来たようなものだ。しかし、これだけ破格の扱いが許される間柄であるにもかかわらず、今回のように国家間の紛争は起こってしまうものである。大した重要な仕事もしていない、ただの私設秘書の俺ではあるが、外交というものは本当に難しいものである、そう思わざるを得ない一件だ。
 大使館から住宅地までは、専用の送迎馬車に乗って移動する。特に俺は、大使直属の関係者という事で、別途用意された馬車に乗せられた。内装が普通よりも豪華で、広くゆったりした作りになっており、俺には分不相応に思えて落ち着かなかった。平職員だった頃から随分と出世したものだ、そんな錯覚を覚える。
 程無く馬車が止まり、御者が外からドアを開けてくれる。偉ぶれない俺は、律儀に一礼しながら馬車を降りた。
「え……?」
 そして、直後には眉をひそめた珍妙な声を漏らした。それは、俺の目の前に立ちはだかっていたのは、見上げるほど大きな屋敷だったからだ。俺は、サイファー用に割り当てられた宿舎までと頼んだはずなのだが。
「すまないが、本当にここで確かなのか?」
「大使私設秘書のサイファー様でいらっしゃいますよね? でしたら、間違いは御座いませんよ」
「そうか……」
 俺は、住宅地に用意された宿舎がどういったものかは知らされておらず、重職者の住所は全て把握しているという御者に任せて馬車に乗っただけである。果たして、本当にこんな豪華な建物が俺に割り当てられた宿舎なのだろうか。戻って行く馬車に一礼しつつ、恐る恐る正門をくぐり玄関の扉をノックした。しばらくした後、中から慌ただしく駆け寄って来る足音が聞こえて来て、扉がゆっくりと開かれる。現れたのは、息を切らせたルイだった。どうやら、大分玄関から離れた所に居たらしい。
「あ、サイファーさん。お帰りなさい」
「ああ、ただいま。今日は早く帰されたんでな」
 ルイが現れたという事は、やはり此処で間違いは無いのだろう。幾分安堵しながら中へと入った。
「流石にびっくりしましたよね。まさか、こんな大きなお屋敷が宿舎だなんて」
「そうだな。御者の間違いかと思ったが、そうでも無いようだな」
 内装は、セディアランド式のシンプルな館造りで、予め備え付けているらしい調度品も幾つか布を被ったまま置かれてある。南ラングリスの大使館を二回りほど縮めたぐらいだろうか。雰囲気も良く似ているため、まるであそこに再び出勤してきたような気分だった。
 ルイに案内された先は食堂だった。そこには軽く十名は会食出来そうなテーブルが設えてあり、立派な暖炉や絵画なども用意されている。その隅に座り、溜め息をつきながら高い天井を見上げる。その天井も、やたら格式高げな風景画が描かれている。ルイは慌ただしく動きながら、てきぱきとお茶の用意をする。カップなどは南ラングリスから持って来た物のため、この食堂の厳かな雰囲気からするといささか貧相に見えた。
「しかし、どうしてこんな屋敷があてがわれたんだろうか。これでは、とても落ち着けないな」
「実はお隣が大使のお屋敷なのです。それでルイーズさんのお話ですと、大使の屋敷から一番近くて家族用の物件が此処しか無かったらしくて」
「要は、大使の都合でこうなったという訳か……」
 いつでも俺を呼び出せるように、という事なのだろう。相変わらず自分の都合で人を振り回す人である。それは今に始まったことではないが、やはり仕事だけでなく私生活にまで及ぶといささか考え物である。
「荷物はもう業者さんに全て入れて戴きました。ですが、これからはお掃除が大変になりそうです」
「別に全部使う事も無いさ。普段の生活なら、一つ二つの部屋で十分だ」
「それもそうですね。私も、ちょっと広過ぎて落ち着きませんから」
 お互い、こういった屋敷とは無縁で育った一般庶民である。生活もその身の丈に合ったものの方がしっくりくるものだ。どうせ、俺の職分で貴賓を自宅へ招く事は有り得ない。大使のように、使用人を雇って豪華に飾っておく必要も無いだろう。
「ところで、ルイ。こんな時に済まないが、実は明日からしばらく家を空ける事になった」
「出張のお仕事でしょうか?」
「ああ。大使閣下の御指名でな。しばらく、ストルナ市という所に行く事になった。此処からは少し離れた地方都市だそうだ」
「私の事は心配しないで下さい。ここは何でも用意されてありますし、困った時はルイーズさんもいらっしゃいますから」
「すまんな。なるべく早く終わらせて帰る」
 にこやかな表情を返すルイではあるが、これまで目立った不平不満を口にして来なかった分、それがかえってプレッシャーに感じる事がある。本当は何か言いたい事があるはずだが、口にするのは矜持に反するのだろうか。
「それにしても、随分と急なんですね。まだ着いたばかりなのに」
「ちょっと上がごたついているらしくてな。大使も前任者との引き継ぎが出来ないまま、ここに来てしまったんだ。ハミルトンさんやクレイグさんも、今日から大忙しになるだろう。俺も、その間に出来る仕事をしないといけない」
「そうなんですか。お二人とも、お引越しの片付けも済んでないでしょうに。やはり大使館のお仕事は大変なのですね」
 前任の大使とフェルナン大使は、今回は一度も顔を合わせていない。それは、前任者は例の事件で軍部に睨まれて身動きが取れず、国王の勅命でようやく出国が出来たという経緯のためだ。赴任先は政府によってスケジュールが組まれているため、着任日を変える事は出来ない。当然、出国が遅れたため直ちに移動せねばならず、引き継ぎは書面でのみ行わざるを得なかったのだ。そして、今度は俺がそんな軍部の棲む所へ赴くのである。前任者の彼よりも遥かに強行な態度を取られるのは目に見えており、非常に不安の募る心境である。
「ところで、今夜の夕食はどうしましょうか? まだ何も準備は出来てないのですけど」
「うちで食べよう。しばらくルイの料理が食べられないからな。まだ日は高いんだから、買い物もこれから一緒に行けばいい」
「はい、分かりました」
 嬉しそうに微笑むルイを見ていると、そんな彼女をしばらく一人で放っておくような自分に罪悪感を覚える。
 彼女との結婚は、そこに至るまでの経緯が世間一般とはかけ離れ過ぎていたから、せめて結婚後の生活は良いものにしてやりたいのだが。今の仕事のままでそれは可能なのか、酷く疑問に思う事が多々ある。
 時折考えるそれを、今ばかりは強烈に意識してしまった。