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 翌朝の朝餉の席には、中野彦二郎は現れなかった。昨夜の急な仕事で外出し、まだ帰宅していないためとの事だった。昨夜見たものを直接問い質すつもりだった針阿弥だが、出鼻を挫かれたと悔やむ一方で、やはりあれらは良仁の言った通りのものなのだと確信を強める。
 それから針阿弥は、自室にてひたすら彦二郎の帰りを待ち続けた。その間、何をどう切り出すか、どう解決すべきなのか、思案に思案を重ねた。既に針阿弥の考えは、落とし所ではなく具体的な解決策を模索するようになっていた。ただの路銀稼ぎのつもりだったのが、何とかしてこの親子を正道へ戻してやりたいと、いつの間にか願うようになったためだ。大した目的もなく放浪を続け、僧らしい事も何一つした覚えのない身の上で、これほとの激情は初めてかもや知れない。だから針阿弥は、どのような末路を辿ろうと、自分に出来る事は全てやり遂げたいと決心していた。
 中野彦二郎が帰宅したと聞かされたのは、丁度昼過ぎの事だった。それから間も無く、ふと中庭の物音に気がつき、それが昨夜のあの音に似ていたためすぐさま部屋を出て確かめてみたところ、丁度目の前をあの荷車達が通り過ぎる所だった。引き手はいずれも見覚えのある顔ばかりで、流石に昨夜と同じ格好はしていない。おそらくどこか取引先などで着替えたのだろう。
 よく荷車を観察すると、いずれにも大きな木箱が荒縄できつく縛り付けられていた。これだけの大店なのだから、取引する反物にしても数が相当あるのだろう、木箱は非常に長く深い作りで、人が一人はすっぽりとそのまま収まるように見受けられた。良仁は、この木箱の事について言っていたのだろう。帰りの方の荷物が重い。それはおそらく昨夜の事ではなくて、例の抜け荷を仕入れに向かった帰りの事を言っているのだろう。今運んでいるのは、おそらく抜け荷を引き渡した後の空箱、もしくは帳簿に乗らない類の代金のはずだ。
「おや、一雲斎様。如何されましたか?」
 荷車の列の後から彦二郎が現れた。手には帳簿と墨壷をぶら下げており、如何にも仕事帰りといった風体だった。
「いえ、これだけ多くの荷車が通るのは珍しいものだと思いまして」
「我が中野屋はこの近辺では最も多くの品を扱っていますから。特に大きな取引の時は、このように一斉に駆り出すのです」
「と言うことは、やはり昨夜のはそのせいだったのですな」
 針阿弥はそう昨夜偶然目にした事を言葉の中にほのめかす。
「まあ、そうですな」
「ちなみに、何処の何方様でありましょうか?」
「それは他言出来ませぬ。さる高貴なお方、とだけ。申し訳ございません、何事も商売は信用が第一ですから」
「いやいや、こちらこそ失敬した」
 やはり、簡単に名は明かすものではない。当然といえば当然だが、こちらの牽制を何事も無かったかのようにかわされるのも癪である。
「ところで、彦二郎殿。お糸の事ですが、大方原因は分かりましたぞ」
「なんと! それは朗報です。して、一体どういったものなのでしょうか?」
「それについてなのですが、今この場で話すのは少々憚られます。今宵お時間頂きとう思いますが、如何でしょうか? 出来るだけ人払いをした場所で、我らのみで話しとうございます故」
「あまり宜しいものではない、という事なのでしょうか?」
「何ともお答えできませぬ。これは非常に入り組んだ厄介な話でございます。万が一、盗み聞きされた事で誤った噂を流されでもすれば、中野屋の看板に傷が付きかねませんので、念のため」
「なるほど……まだ慎重にせねばならぬという訳ですね。お心遣いに気付かず、御無礼いたしました」
「なんのなんの。それでは今宵、という事で……」
「承知致しました。後で使いを寄越しますので、詳細は後ほどに……」
 彦二郎は一礼し、荷車の方へと向かい去って行った。
 自分が何を言わんとしているのか、彦二郎はきっと気付いてはいないだろう。そして、お糸が裏の稼業を知ってしまったという事も。
 このように、普段見る分には実に温厚で誠実な人間である。それが何故、裏の稼業に手を出しもう一つの顔を持つに至ったのか。その訳はどうしても聞きたいと思う。そして、出来ればその訳が自分でも納得のいくものであって欲しい。仕方なかった、どうしようもなかった、そういった理由であるならば、何よりお糸の気持ちが救われるのである。だが、人というものは分からぬものである。そうでないばかりか、もっと酷い理由であるかも知れない。普段の顔が清廉であればあるほど裏の顔の振れ幅が大きい事は、これまでに幾つも見知って来た事なのだ。
 僧になろうとも、他人の人生に深く関わる事はしないと決めていた。人というものが分からぬのに標になろうなどと、高慢極まりないものだと考えるからだ。けれど、今回ばかりはその決意を返上し、場合によっては中野彦二郎に引導を渡す事になるのかもしれない。
 果たしてそれが、この自分に出来るのだろうか。今からそれを想像するだけで、手が震えてくるのを感じた。