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夜、針阿弥は彦二郎の私室にて白湯と小さな焼き菓子を戴いた。普段から菓子を用意している訳ではないものの、たまたま出入りしている懇意の商人から戴いたものだそうだが、おそらく生臭や酒を口にしない針阿弥のための方便であろうと憶測する。しかしこうも厚遇が続くと、何としてでも結果を出さなければいけない、そんな重圧が重くのしかかってくる。
「お糸の様子は如何でしょうか?」
「いえ、まだ何も。まず憑き物には違いないでしょうから、じっくり慎重に行おうと思っております。強引に落としても、あまり良いことはありませんから」
「やはり狐狸の類でしょうか」
「憑き物に牛蒡種というものがありましてな。おそらくこいつの仕業でしょう」
「その牛蒡種とはどういったものなのでしょうか?」
「真面目な者を食い物にする、非常に質の悪い妖物です。人の嫉妬を吸い集めて力をつける奴で、中野様のように大きな商売をされている方を特に好み、家人に取り憑いてはこのように騒ぎを起こすのです」
「なるほど……。私も商いに関しては誠意を持って行なっておりますが、やはり時には逆恨みを受ける事もありますから。それで目を付けられてしまったのでしょう。しかし、同業者などならともかく、まさか物の怪とは……」
「そう気に病む事はありませんよ。むしろ、人間相手の方が騒ぎも大きくなりますし、中野屋の看板にも傷が付きます。物の怪相手ならば、代官も必要ありませんので、遠慮無く調伏出来るというものです。物の怪の言い分など無関係ですから」
商人同士の諍いほど厄介な物はない。約束事の食い違いから起こるのが通例だが、その落としどころを見つけるのが非常に難行で、賄賂を受け取らぬ真面目な代官ほど泣かされるものだ。そして、諍いに決着が着いたところで双方の店の印象は世間から悪くなり、失地挽回には更なる労力が必要となる。人同士の諍いは往々にして無益極まりないものである。
「一雲斎様、一つお訊きしたいのですが」
「何でしょう?」
湯飲みの白湯が半分ほどになった頃、彦二郎はおもむろに針阿弥へ問うた。
「その、お糸へ取り憑いている物の怪は、どのような事を言っているのでしょうか?」
「何か気になる事でもございましたか?」
「いえ、ただちょっと気になると申しますか……。あれだけの騒ぎですし、何か不遜な事を言ってなければと思いまして。ほら、店の悪い評判に繋がっては困ると」
針阿弥は、おや、と首を傾げる。何故、物の怪の言う事などに彦二郎は興味を持つのか。確かに店の評判が貶められるのは困るだろうが、既に何人もの僧や上人が憑き物落としに失敗しているのだから、中野屋の評判はとうに芳しくないものになっていると普通は思うだろう。どうしてこの期に及んで未だ物の怪の言う事などに気を留めるのか。その疑問に対し、ふと良仁の言葉が脳裏を過ぎった。彦二郎へこの言付けを伝えれば面白い反応が見られる、そう良仁は言っていた。そんなものは所詮物の怪の戯言とは思っていたが、彦二郎の見せた意外な食指が、良仁の言葉へ大きく信憑性を持たせてくる。
「口にするのも憚られる、罵詈雑言の類です。どうもあの妖物、中野様をお嫌いになっているようで。所詮は小悪党の放言、気に留めるまでもありませぬ。まあ、一つ気になるような事も言ってはおりましたが……」
「それは何と?」
ずいと顔を近づける彦二郎。あまりに露骨な興味の仕草である。
「帰りの荷駄は随分と重いな、と。はてさて、何の事やら。中野様は商人ですから、品物を運ぶのに荷駄はお使いになって然りでしょう。帰りが重いというのは、反物の代金の銭の事でしょうかな」
「い、いえ、そういった大口の取引は、基本的に掛売りですから……」
「はあ、そういうものなのですか。失敬しました、私は商売には疎いもので」
どうにか取り繕っているようだが、確かに彦二郎の顔には驚きと動揺の色が浮かんだ事を、針阿弥は見逃さなかった。僅かな変化とは言え、少なからず良仁の言葉の中に思い当たる節があるのだろう。それも、自ずから明言しない以上、まず間違いなく後ろ暗い意味である。
では、中野彦二郎は一体何を隠しているのだろうか。何か商いに関する裏の顔でもあるのか、そう推察するのが自然だが、流石に憶測でそのような指摘など口が裂けても出来るものではない。
「なに、物の怪の戯言など深く考える必要はございませんよ。そうやって支離滅裂な事を口走り、家人を困らせるのが奴らの手口です故」
「は、はあ……。承知致しました」
針阿弥は、自分は何も勘付いていないという素振りで、それらしく彦二郎を諭す。実情が分かるまでは迂闊な言動は慎むべき、それが現状で取れる最も無難な選択である。
「あ、一雲斎様。二つ、お願いがございます」
「何でしょう?」
「もしこの先、お糸に取り憑いたそれが何か気になるような事を口走りましたら、すぐ私にお教え下さい。それと、その内容は我々以外にはどうかご内密に……」
「心得ました。まあ、人間誠意を尽くしていても、風聞や風評で貶められる事はありますからな。私も、くれぐれも中野屋の看板に泥をかけぬよう注意いたします故」
「何卒……何卒お願いいたします」
平身低頭の彦二郎の姿に、針阿弥は流石に苦笑いを隠せなかった。やはり、彦二郎には何か後ろ暗い隠し事があるのは間違いない。しかしそれがどのような物なのか、自分の説教で改心させられる程度か、はたまた代官所へ訴えねばならぬような代物なのか。何にせよ、これまでの彦二郎は非常に真面目で誠意のある商人の印象しかないため、その内側の薄暗い部分がどれほどの深さなのか、とても見当が付けられない。