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「さて、まずは呼び方から決めぬとな」
 下男達が去ったのを確認するなり、針阿弥は大胆にも柱に縛り付けられたお糸の正面へどっかりと腰を下ろした。お糸は手足をきつく縛られており、針阿弥に対して指一本触れる事はかなわない。だが、如何にもそれを知っての見せる不敵な態度に、たちまちお糸の顔は憎らしげに歪んだ。
「何だ、この糞坊主目が。何を決めると言うのだ」
「お主の呼び名だよ。なんせ、名を訊ねても教えてくれなんだ。お糸でないというのなら、呼び名が無ければこっちが呼び方に困る」
「俺は天火明命だと言ったはずだぞ」
「戯けたことを。お主のような奴が神であるものか。拙僧にそのような騙りは通じぬぞ」
「てめえこそ、神を何だと思っている! たかが乞食坊主の分際で、天罰が下るぞ!」
「ならば、今すぐにでも下してみよ。なに、遠慮は要らぬぞ」
 不敵な笑みを浮かべる針阿弥に、お糸はぎりぎりと悔しげに歯ぎしりする。天罰と言えば針阿弥が不遜な態度を改めるだろうと目論んでいたのだが、それが通じなかったためである。針阿弥はお糸の脅しなど歯牙にも掛けていない。天罰が下るという脅し文句は神ではなく信徒側の言い回しであり、本物の神はいちいち脅したりなどせず黙って罰を下すものだ。
「よし、決めた。これからお主の事は良仁と呼ぶ事にしよう」
「ふざけるな! 何を勝手に名付けている!」
「そう呼ばれるのが嫌ならば、早く本名を明かす事だな。そうでないなら、私はこれより勝手にそう呼ぶ。そもそも、あながちこれは悪い名ではないぞ。尾張のそれはそれは素晴らしい上人の名じゃ。そうじゃ、思い出した。なんとも傑作な話があってな。私がまだ小坊主だった頃に、寺にあやかって良仁を名乗る修行僧がおってな。まあこれの物覚えの悪い事と言ったら。行儀も悪く、目上の者も敬おうとしない。まあ、お主にはこちらの意味での方がお似合いであろうな」
「黙れ黙れ黙れ! この糞乞食め!」
 怒る相手に対して涼やかに笑って見せる事ほど、立場の優劣を明確に見せ付けられるものはない。敵を屈服させるのに最も必要なのは、とても敵わないと思わせる事だ。そこへ至らせるために、ここから一つ一つじっくりと心を折ってやらねばならない。
「さて、良仁。お前は何故この娘に取り憑く? この娘が何をしたというのだ。罪もないのであれば、あまりに酷いとは思わぬか? お主が奇行を働くおかげで、年頃だというのに嫁に行けぬのだぞ」
「ふん、お前なんぞに関係あるものか」
「しかし、私は中野様のためにお糸を元に戻して差し上げねばならぬ。お前にも出て行って貰わねば困るのだ」
「なら丁度良い。困れ、そして不幸になればいい。お前も、あの鬼畜もだ」
「お主の目的は、この中野屋を不幸にする事なのか?」
「ああそうだ。商売もしくじり、評判を地へ落とし、家族を離散させ野垂れ死にする。それが俺の悲願よ」
「何が憎くてそのような事を。何故中野様を恨んでおるのか? 何か遺恨でもあるのか?」
「あったら何だと言うのだ。理由が必要なのか?」
「私に出来る事ならば、精一杯の助力をいたすぞ。お主の気が晴れれば、それに越したことはない」
「理由などない。俺はあの男が不幸になる所さえ見られれば良いのだ」
 何も理由もなく、縁もゆかりもない人を不幸にして満足だと。良仁の考える事は針阿弥には今ひとつ量りかねた。彦次郎に何か恨みがあって取り憑いているのであれば、事はすんなりと解決するだろう。その恨みを取り除いてやれば良いからだ。しかし、恨みも無くただ好奇心だけでやっているというのであれば、事は非常に面倒である。童に遊ぶなと言い聞かせるようなものだ。
「では、中野様には伝えたい事はないか? 拙僧から伝えてやっても良いぞ。お主とて、ただこうして縛り付けられるだけでは面白くなかろう」
「乞食坊主め、また何か謀か? まあいい、せっかくだから乗ってやろう。ではあの糞に、帰りの荷駄は随分と重いな、と言ってやれ」
「帰りの荷駄? 一体何の事であろう」
「彼奴の顔色を窺えば分かる。傑作なものが見れようぞ」
 顔色を窺う? それはつまり、彦二郎には思い当たる節がある言葉なのだろうか。
 一体どういう意味が込められているのかは分からないが、ともかく彦二郎には伝えるべきであろう。この繋がりから、何かしら手掛かりが見つかるかもしれない。