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再びお糸が正気を失ったのは、針阿弥が中野屋に逗留して二日目の朝の事だった。
その日の朝、針阿弥は只ならぬ叫び声と物音で目を覚ました。何事かと障子を開け飛び出すと、そこで目にしたのは、まるで獣のように四つ足で中庭を駆けるお糸と、それを追う二人の下男だった。
魔物が表へ現れた。状況を簡潔ながら理解した針阿弥は、自分も廊下伝いにお糸の後を追った。しかし、逃げるお糸は四つ足で走っているにも関わらず、恐ろしく速く機敏だった。自分は元より、まだ若い下男ですら追い付こうとするのがやっとという有り様だった。まだ使い走りの小坊主だった頃に野良犬を追いかけて遊んだ事があったが、それと同じような印象だった。二本足で走る自分とは明らかに構造が違う速さ、それを人間に対して感じるとは夢にも思わなかった。
中野屋の広い敷地も際限なく続く訳ではない。やがてお糸は外と隔てる塀の高い壁に突き当たり足を止める。下男達は好機とばかりにお糸の元へ急ぐものの、するとお糸は裾を捲り上げるや否や、どこにどのように力を込めているのかするすると塀の壁を登り始めてしまった。まるで蜥蜴か蛙のような仕草で、四つ足で走る事以上に人間離れした姿に下男達はたちまち表情を青褪める。
「喝!」
直後、周囲を震わせるほどの針阿弥の大喝が響き渡った。この不意打ちに間隙を突かれ身を強張らせたのは下男達だけでなく、塀をよじ登るお糸も同じだった。お糸は力の加減を忘れたか、壁をずるずると滑り落ちていき尻を地面へ打ち付けた。その隙を逃さず、下男達は同時に飛びかかってお糸を抑えつける。
「離せ! 使い風情が俺に触るな!」
「お嬢様、おとなしくなさって下さい! 旦那様のお言いつけです!」
「うるさい! あのような糞など何するものぞ!」
下男二人に両側から抑えつけられるお糸だったが、その細い腕からは想像もつかない程の膂力で下男を振りほどこうとする。下男達は何とか振りほどかれまいと食らいつくものの、時折足が地面から離れそうになるほどの有様で、このままお糸に解かれるのも時間の問題のようだった。その喧騒の元へ針阿弥はわざとらしくもったいぶった足取りで歩み寄る。
「お糸、一体どうしたというのだ。少しは収まらぬか。年頃の娘が足も露わにするなど、はしたない」
「まだいたか、この乞食坊主め! お前の乞食説法など要らぬわ!」
「その言葉遣いもいかんな。まったく、普段のお主は淑やかで芍薬のような娘であったというのに。これではまるで獣ぞ」
「何を飾るか。お前も、あの男も、みんな獣とどこが違う?」
「一霊四魂が宿り人と成り得るものだが、今のお主はどうにも四魂が欠けておるようじゃな」
半ば呆れながら、針阿弥は下男に取り押さえられるお糸を見下ろす。質素ながらも良い仕立てであったはずの着物はすっかり形が崩れて裾も破け、手足だけでなく顔までも赤茶けた泥で汚れている。山賊が町へ降りてきたと言っても違和感の無いような風体だ。
「御坊様、今縄を打ちますんで離れて下さいませ」
縄で手足を縛られながらも、尚もお糸は罵詈雑言を吐き続ける。そればかりか、時折下男の顔へ目掛けて唾を吐きつける始末である。何故あのように淑やかな娘がこうも卑しい姿へ変貌してしまうのか、針阿弥には皆目検討も付かず不思議でならなかった。狐狸の類が人に入り込むなど信じている訳ではないが、そうと解釈するのが一番自然に見える状況である。
手足をきつく縛ったお糸を、下男達は手馴れた手つきで例の蔵へと運び柱へ括り付ける。それでもお糸は縄を力尽くで解こうとするものの、柱が僅かに軋むだけで、流石に千切る事は出来なかった。
「御坊様、戸に鍵をかけますが如何なさいますか?」
「そうですね。では、私はお糸と話をいたしましょう。根気良く説法を聴かせてみようと思います。中野様にもそのようにお伝え下さい」
「あの、大丈夫でしょうか? こうなってしまったお嬢様は本当に危のうございます。不用意に近づけば、指の一つも噛み千切られるやも知れませんので」
「御心配無く。生来の小心者の故、迂闊な真似はいたしませんよ」
「分かりました。鍵はお預けいたしますので、お出になる際は施錠をお願いいたします。くれぐれもお気をつけて……」
不安げな表情のまま、針阿弥を残して蔵を後にする下男達。蔵の戸が閉まる音が響くと、後はお糸の未だ吐き続ける罵詈雑言だけが聞こえるようになった。こうして一対一で対面するのは、中野屋へ迷い込んだ日以来である。
「おい、乞食坊主。お前だけ残って何のつもりだ」
「まだそのような口を利く余力は残っておるか」
「俺に念仏でも唱えて成仏させようってなら無駄だぞ。俺は幽霊ではないのだからな」
「わしはそういったものは信じぬ性質でな。坊主の癖に大した供養の仕方も知らぬよ」
「白々しい嘘をつくな。大方、あの男が俺をお前に成仏させようとしているのだろう。今までも何人もやって来たからな」
「ほう。それで、お主はどうしたのだ?」
「耳の一つも食い千切ってやれば、尻尾を巻いて逃げ出したさ。覚えていろ、お前もいずれそうしてやる。この俺をお前のような乞食がどうこう出来るものか」
この話し方、まるで自分とお糸は異なる存在だと主張しているような言い草に聞こえる。そう針阿弥は、変貌したお糸の口調にそんな違和感を感じた。事実はともかく、今はまだお糸には何かが取り憑いたと仮定しておいた方が話は進めやすいかもしれない。
「お主はお糸では無いと申しているように聞こえるのだが、違うか?」
「そうだ。俺は天火明命だ。お前のような乞食が安々と話しかけて良いものではないわ」
「ほっ、天火明命とな。それはそれは御無礼を」
当然だが、天火明命などという世迷い事を針阿弥は信じてはいない。まず間違いなく騙りである。名前を偽ったという事は、単にこちらを権威ある名前で畏まらせたい意図があるからだろう。同時に、自分の正体が軽んじられる小物である事も示している。往々にして、自分を大物と信ずるものほど自分の名前に誇りを持つものだ。
お糸は恐らく、この天火明命と名乗る何者かの存在を、何かの理由で妄信してしまっているに違いない。それ故に、このように酩酊し我を失うのだろう。
この者が天火明命などではなく、そして実在する者でもない事を、お糸に自覚させる事が解決策になるだろう。だが、今は対話する事しかするべき手立てが無い。何か、この者の存在感を崩す要素が必要である。それを見つける事が先決だ。