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翌朝、針阿弥は障子越しの呼び掛け声で目が覚めた。普段は夜明けと同じ頃合いに自然と目が覚めるのだが、久しぶりの布団にありつけたせいか寝坊してしまったようである。
「一雲斎様、朝でございます」
「あ、ああ……。その声はお糸か?」
「はい、そうでございます」
今朝のお糸は、昨夜から引き続き落ち着いた様子だった。これが平素の彼女の姿なのだろう、歳相応に淑やかさと気品に溢れている。この器量に加え大店の娘とあらば、嫁の当てなど引く手数多だろう。それがあのような奇行に走るのだから、何とも勿体のない話である。
お糸が部屋に運んで来た手桶の水で顔を洗い、白い綺麗な手ぬぐいで顔を洗う。着物も中野屋の用意した新しいものへ着替えた。自分のような者に、と遠慮はしたのだが、主人の彦二郎はどうにも頑として聞き入れてはくれなかった。逗留は初めての経験では無いが、ここまで破格の待遇を受けた事は無い。針阿弥は身に余る待遇の厚さに、いよいよ結果を出さねばと焦りを募らせる。
「朝餉の用意が間も無く整います。お部屋へ御案内いたしましょう」
「何から何まで、かたじけのうございます」
お糸の案内で母屋の廊下を進む。外からでも窺えたが、やはり中野屋の母屋は非常に広く、案内が無ければ簡単に迷うてしまう様が想像出来た。蔵の並ぶ裏庭とは逆側に当たる中庭が渡り廊下に面しており、良く手入れされた松の木々と乳白色の玉砂利が実に見事だった。これ程の庭を持つのは、名の知れた大名でもなければ難しいだろう。
「失礼致します。一雲斎様を御案内いたしました」
お糸の案内の先に通されたのは、昨夜夕餉を戴いた間だった。彦二郎は昨夜と同じ場所へ腰を下ろし、手には仕事のものらしい帳簿を持っていた。こういった朝の食事の合間にも仕事をしているのだろう。
「おお、おはようございます、一雲斎様。昨夜は良くお休みになられましたか?」
「それはもう。これ程厚く遇して頂き、いささか恐縮しております」
「そんな、とんでもない。皆が匙を投げてしまったお糸の事を引き受けて下さったのですから、これぐらいの事は当然です」
程なくして女中が其々の元へ膳を運んで来た。膳の中は一汁一菜と、夕餉に比べてはやや位が上である。けれど、一菜が鮒などではなく菜っ葉のお浸しという所を見ると、質素倹約を心掛けている事には変わりはなさそうである。
「また粗末な朝餉で申し訳ありません」
「いえ、私にはこういったものが口に合います故、お気になさらず。修行時代から一汁一菜でも贅沢なものでしたし、生臭は口にいたしませぬので」
朝餉が済み膳が下げられると、入れ替わりにお糸が白湯の鉄瓶を持って来た。やはり質素を旨にしているため、食後も茶を飲むような事はしないのだろう。
「ところで、一雲斎様。これからお糸の事は如何にするおつもりなのでしょうか?」
「まずは、またあのような状態になるのを待ってみようかと思います。昨日は蔵の中で話をしてみましたが、こちらの言葉は理解はしている様子でした。なので、今度はもう少し食い下がり、粘り強く会話をしてみようと思っております」
「それで調伏いたすのでしょうか?」
「いえ。まずは、何故お糸に取り憑くのか、その目的を聞いてみようと思います。そこから正体を解明して行ければ良いかと」
「これまでの方々は、こう何と申しますか、護摩行のようなものや札を幾つも用意しておりました。一雲斎様はそういった御準備はなさらないので?」
「取り憑きし物の正体が分からぬようでは、祓い様がありませぬ故。まかり誤った祓いをして、今より重くなっては事ですから」
「なるほど……。まずは原因を解明してから、という事でございますね」
無論、それらの計画は出任せも良い所である。針阿弥は物の怪や魑魅魍魎の祓い方など露ほども知らず、悪霊退散の札すら辛うじて念仏の文字を書けるような程度のものである。これまで失敗してきた法師や上人の方が遥かに能力が優れているという事だが、同じやり方では失敗もするだろうし、そもそも真似事すらも出来ない。まず打開策を探るためには、これまでとは異なった切り口で挑むしかない。それが針阿弥にとっての苦肉の策である。
「流石は一雲斎様、何とも頼もしいお言葉ではありませぬか。お糸や、良かったなあ。直に一雲斎様が何とかしれくれるぞ」
「はい、本当に嬉しゅうございます」
父娘揃って深々と礼をする姿に、針阿弥は口元から苦い笑みをこぼしそうになった。まだ祓うどころか取っ掛かりすら掴めていないというのに、まるで既に祓い終えてしまったかのような言い草。これはかえって己の重圧になる、光明の無い針阿弥にとってはそれ以外の何者でも無かった。