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その晩、針阿弥は中野屋の母屋へ招かれ、中野彦二郎と夕食を取った。夕食は山菜と茸を刻んだ雑炊に香の物だけと、大店の主人にしては実に質素なものだった。けれど、火の通った物を幾日も食べられない事も珍しくはない針阿弥にとっては、充分過ぎる馳走だった。
「このような粗末なもので申し訳ありません。この騒ぎで何も御用意出来ずにおりましたため」
「なに、私のような者には過分な馳走です。それに、商いをする者が質素倹約はとても良いお心掛けかと」
「そう言って頂けると助かります。何分、物心ついた頃からこのような暮らしをしております故、贅沢をすると、こう気持ちが後ろめたくなるのでございます。恐らくこの先、娘が嫁に行く時くらいでしょうかね、存分にお大尽するのは」
この質素な食生活は、死んだ父親の教えによるものだと彦二郎は語る。酒も月に一度あるかないかで、それも付き合い酒ばかり。その上、彦二郎は下戸のためあまり好んでは飲まないそうだ。気晴らしも難しい不安定な世情の中、これほど質素な生活を敢えて選ぶ豪商は非常に珍しいと言えるだろう。
二人の話も弾む中、ふと部屋の外に人の気配が近付いてくるのを感じ取った。断りを入れて楚々と入ってきたのは、彦二郎の女房お絹だった。
「あなた、お糸が落ち着いたようです」
「うん、そうか。それじゃあ、此処へ来るように言いなさい。一雲斎様に御挨拶をせねば」
「承知いたしました」
お絹は一礼し部屋を去る。その立ち居振る舞いは実に洗練されており、実家は相当な名家でないかと窺わせる。顔立ちや話し方もさることながら、やはり内から出る気品は百姓出とは明らかに異なる。
「お糸を放しても良いのですか?」
「ええ、一度落ち着けば元の通り、私の娘に戻りますので。お糸は本当は大声の一つもあげられない、淑やかな娘なのです。それに、幼い頃はとても病気がちでしたから。あのような所に何時までも繋いでいては、またすぐに具合を悪くしてしまいます」
針阿弥には、蔵で見たお糸の振る舞いはとても病弱な者のそれとは思えなかった。確かに親からは大事に育てられたようには見えるのだが、今見た母親のような気品は一つたりとも感じ取れない。山から拾った捨て子と聞いても納得するだろう。果たして、あのような分別の分からぬ娘を解いてよいものか。針阿弥は内心不安を抱いた。
「失礼いたします。お茶をお持ちいたしました」
しばらくして、部屋の外からはお絹とは別の女人の声がする。声は非常に若々しく、更に控え目なものだった。
「おお、お糸か。入っておいで」
「はい、只今」
彦二郎に呼ばれ入って来たのは、年頃の若い娘。そして、その顔を見た針阿弥は驚きを隠せなかった。それは紛れもなく、あの蔵に繋がれていたお糸本人であったからだ。ざんばらに振り乱していた髪は綺麗に梳いて結われ、赤い小さな飾りのついたかんざしを差している。目元は控えめに伏せがちで、あのぎらぎらした異様な光は何処にも残っていない。つばを飛ばしながら暴言の限りを吐いていた口元はすっかり大人しく、唇には目立たぬ程度に薄紅を引いている。如何にも出自育ちの卑しくない、名家の息女らしい装いと立ち居振る舞いである。とても縛り付けられていた時と同一人物とは思えないほど、見事な変わり様としか言い様の無い光景である。
「こちらが一雲斎様だ。御挨拶なさい」
「はい。初めまして、中野彦二郎の娘、お糸と申します」
「一雲斎針阿弥と申します。ところで、初めましてという口ぶりからすると、もしやお糸は蔵での事を知らぬのですか?」
「ええ。あのようになった時の事をお糸はほとんど覚えておらぬのです」
「なるほど、それでは私の顔も名前も」
「はい、旅のお坊様がいらっしゃっていると、先程かか様からお聞きいたしました」
そう話すお糸の目は純朴そのもので、とても嘘をついているようには見えなかった。まだ初々しく、虫も殺さぬようなあどけない顔である。とても疑う方が恥ずかしくなるような清らかさだ。
「おそらくお糸は狐か何かの物の怪に取り憑かれているのだと思うのです。そうでなければ、この優しい娘があのような真似をするはずがありません。とは言え、名立たる医者にも診て頂きましたが如何な薬も効かず、法師様にもお祓いをお願いしましたが一向に良くなる気配はありません。お糸の噂も徐々に広がり、最近では何処も取り合ってすら頂けませぬ。このままでは嫁の貰い手などとても現れぬでしょう。一雲斎様、事態は既にご覧になった通りでございます。何卒、我が家に逗留して戴いて、お糸に取り憑いた魔物を払っては頂けませぬでしょうか? どうか、何卒……」
彦二郎とお糸は揃って手を付き、針阿弥に向かって深々と頭を下げる。自分のような氏素性の知れぬ坊主に平伏するなど、どれだけ困り果てているのか窺い知るには十分である。既に夕餉を振舞って戴いた手前、すげなくする訳にもいかない。
「承知致しました。御息女に巣食う物の怪、非力ながらも尽力いたしましょう」
「ありがとうございます、ありがとうございます……。どうか、どうか宜しくお願い申し上げます」
何度も何度も額をこすりつけるように礼をする彦二郎を、針阿弥は内心苦い思いで見ていた。年頃の娘が持つ疳の虫を諭してやるつもりが、予想していた以上に大事になってしまったのである。路銀の工面など、簡単には言い出せる状況では無くなってしまった。お糸の変貌する原因を見つけ、治してやれば良いのだろうが、如何せんこのような事態に直面した経験は全く無い。安請け合いをするのではなかった、そう後悔するも今となっては最早手遅れである。