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 部屋の隅に置かれていた火鉢に火を入れ、鉄瓶で水を沸かす。茶の湯の用意はなく、飲むのはただの白湯だが、元々酒も茶もほとんど飲まない弾正忠にしてみれば、話の供にする飲み物など特にこだわりは無い。
 火鉢の火と巻き上がる湯気が、少しずつ冷えた室内を温め始める。針阿弥は自身の震えが和らいでいくのを感じたが、その一方で弾正忠の薄着にはいささか呆れの念も抱いていた。意地か怒りかは分からないが、兎角彼は幼少より常軌を逸した強情さを見せる事があるらしく、おそらくそれの類の心理なのだろうと解釈する。
「して、貴様が見聞した事とは如何様なものか?」
「はい。あれは織田家に召し抱えられる五年は前でしょうか、食い詰めの身でした私は托鉢をしながら流れておりました。その放浪の途中、近江へ辿り着いた時の事です。辿り着いたのは西館村という村で、その日私はここで宿を取る事といたしました。村は非常に活気があり人の行き交いも多く、村と呼ぶには随分な栄えぶりでした。聞く所によると前の年は非常な豊作であったそうです。さてそれから、夜露を凌ぐべく人の住まぬ破れ屋でもないかと村を練り歩いていた所、ふと異様な叫び声を聞きつけ足を止めました。丁度時刻は彼は誰時、何事かと訝しむとまたしてもあの叫び声は聞こえてきます。それも何度も何度も繰り返し、徐々に声も大きくなっていくようでした。この常ならぬ声は一体何処からと周囲を見渡すと、丁度それは通りの先にあった反物問屋からのようでした。店の前を行き交う者達の怪訝な様子から間違いないと思い、ここは一つ物の怪に説法をくれてやれば何か恵んで貰えるであろう、そのような腹積もりで私は店の暖簾をくぐったのでございます」
「異様な叫び声とは一体どのようなものだ?」
「はい。若いおなごの声色ではあるのですが、まるで獣のように吠え叫ぶのでございます。時折言葉のようなものも混じりはしますが、何かに阻まれているのか到底聞き取れるものではございません。私もまだこの時は、声の正体を何処から迷い込んだ獣の類と思っておりました」
 初めこそ訝しげな口調だった弾正忠は、幾分針阿弥の話に興味を持った様子を見せ始めた。右手が肘置きから膝に移り、指先が小刻みに順序良く浮き沈みを繰り返す。思考が何かに集中している時の癖だ。
「店の主人には、この乞食のような形の私を実に丁重に迎えて頂きました。その店は中野屋という老舗の反物問屋で、主人の名は中野彦二郎といいました。私はこの店に何やら怪異は起こっておらぬかと彦二郎殿に訊ねたところ、よほど弱り果てていたのでしょうか、それこそ藁をも掴むような勢いであっさりと見ず知らずの私に打ち明けたのです」
 西館村も中野屋という店の名も弾正忠は知らなかったが、近江の商人の事は度々耳にしている。独特の理念を持った商いをしているそうだが、今の経済基盤においてはさほど重要な存在ではない。後々は目を掛けても良い、その程度の認識である。
「この西野屋の一人娘はお糸といい、そろそろ祝言を考える年頃でした。そのお糸が、去年頃から突然と豹変するようになったというのです。普段は気立ての良く利口で朗らかな娘なのですが、それが突然と獣のような振る舞いを始めるのです。人とは思えぬ遠吠えをしたかと思えば聞くに堪えぬ罵詈雑言を浴びせかけ、男二人でも押さえ込めぬほどの剛力で狼藉を働くなど。最初は三月に一度程度で、徐々に頻度が上がって行き、今では三日も空けずに変わってしまうようなのです。これまで何人もの法師や上人に祈祷などを頼んだものの一向に効果は無く、仕方なしにお糸が収まるまで使わぬ蔵へ閉じ込めておくようになりました。獣になるのは一刻から長くて一晩ほどで、その叫び声がこうして外まで漏れ出るのです。それを私が丁度聞きつけたという事でした」
「獣、とな。大方つまらぬ癇癪ではないのか。年頃のおなごのやりそうな事ぞ」
「私も鬼胎など信じてはおりませぬ。ですが、どの道お糸の豹変は真にせよ狂言であったにせよ事実でございます。それで私は、彦二郎殿に鬼胎の調伏を申し出ました。謝礼が目当てという事もありましたが、彦二郎殿の気を休める事が出来れば良いと思ったのでございます」
「で、貴様は如何にしたのだ? 無いものなど調伏は出来ぬであろう」
「はい。まずは私をお糸を閉じ込めている蔵へ入れて貰うよう、彦二郎殿にお頼みいたしました」