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それは唐突に起こった。
あまりに状況の展開が無くて、焦りが退屈に変わりかけてきた僕は、戸からまこちゃんの隣へ移り座りながらうとうとしていた。ふとこちらへ近づいて来る足音が聞こえて、僕はすぐに飛び起きると戸の前で構えた。
「……あかしま? どうしたの?」
僕の立てた物音に、まこちゃんが眠そうな声で問い掛ける。僕は視線を一度まこちゃんへ向け、再び戸の方へ戻す。するとそれで意図が伝わったらしく、まこちゃんは急に怯えた表情に変わった。
戸の外から鍵をがちゃりと外す音が聞こえる。僕はすぐにまこちゃんの側に移って再び戸に向かって構えた。戸の外に来たのは連中の一人だとすぐに分かった。匂いと足音に覚えがある。
『おい、いるか?』
乱暴な口調で訊ねてくる男の声。それにまこちゃんは返答せず、ぎゅっと構えている僕の背中を掴んだ。手の震えが背中越しにはっきりと伝わってくる。これは何としても、今度こそは守らなくてはいけない。一瞬、脳裏を最初に連中に殴られた時の事を掠めたけれど、僕はより一層闘志を奮い立たせた。
返答が無いと見るや、男はほんの僅かだけ戸を開けて中を覗き込んで来た。開いた隙間から、廊下とリビングの照明の光が差し込んで来て、眩しさに目を細める。
「ちっ、居るなら返事くらいしろよ。どうせ逃げられないんだからな」
舌打ちしながらまこちゃんを見下ろすその男は、玄関で僕を殴った男だった。
「おい、用があるから出て来い。お前一人だけだ。そいつは此処から出すな」
「やだ! あかしまと一緒じゃなきゃどこにもいかない!」
「あのなあ……」
まこちゃんの叫ぶような返答に、男は舌打ちし苛立ちながら溜息をつくと、おもむろに上着の右ポケットへ手を突っ込み、それを取り出して見せた。
「おとなしく言う事を聞かないなら、そいつを撃ち殺すぞ。これが何だか分かるな?」
それを見たまこちゃんは、目を大きく見開き更に怯えを示した。男が構えたのは小さな鉄の塊、拳銃である。僕が前にいた所でも少しだけ実物を見た事がある。形状は違うけれど、持ち方や筒の形は概ね同じだ。
「別に死んでてもいいんだからな、俺達は。それが嫌ならおとなしく言う通りにしろ」
まこちゃんはより強く僕の背中を掴み震える。その手の強さが、自分が今頼られている事の現れなのだと僕は思った。まこちゃんをこの男の言いなりにさせてはならない、僕が何としても追い払わなければ、そう奮起する。さっきは油断していたけれど、今度は一対一で既に身構えている。やりあえば絶対に僕の方が強い。
どこからどう攻めるか。前に教えられた事を反復しながら、攻め手を練っていた時だった。
「決められないならこっちで勝手にやるぞ」
しびれを切らした男はおもむろに拳銃を持ち上げカチンと音を立てた。その小さな音にまこちゃんの体が一度びくっと震え、ぎゅっと僕を掴んでいた手を離し、男の前へ踊り出た。
「駄目! 撃たないで!」
「だったら早くこっちへ来い。いちいち手間取らせるな」
男は苛立った口調で拳銃をポケットにしまうと、また一つ舌打ちしまこちゃんの頭を叩いた。まこちゃんは痛そうにして叩かれた所を押さえるが、それ以上何も口したりしなかった。
またまこちゃんを叩いた。
反射的に僕は男に向かって飛び出そうとする。しかし、いつの間にか唸ってしまっていたのだろう、男は既に僕の方に気付いていて、避ける態勢を作っていた。
「おい、そいつは中でおとなしくさせておけ。外に出すな」
男はうつむいているまこちゃんを小突きながら僕の方を向かせる。どうしていちいちそういう事をするのか、僕は一層男に腹が立ってならなかった。
「あかしまはここでおとなしくしてて。あっちは危ないから」
半分涙ぐんだような声で、まこちゃんは僕の頭を撫でて物置の奥へ押しやろうとする。僕は、まこちゃんの言う事には従うしかない。けれど、従いたくなかった。どう考えても物置の外にまこちゃんを出すのは危ない事としか思えないからだ。だから、押しやられるたびに何度も振り向きまこちゃんが意見を変えないかと思ったけれど、都度更に強く押しやられるだけだった。そして結局、僕は物置の隅から動けなくなってしまい、どうして僕がまこちゃんを守ろうとするのが駄目なのか、という理不尽な気持ちだけが残った。
「ほら、行くぞ」
そしてまこちゃんは、男に衿を引っ張られながら物置の外へ連れ去られてしまった。物置の戸はすぐに閉まり、外から鍵がかけられる。
僕は不安で不安で居ても立ってもいられなかった。一体あの連中はまこちゃんを連れ出してどうするつもりなのか。何も悪い事をしていないまこちゃんに対して平然とああいう事をするのだから、絶対に良くない事に決まっている。
まこちゃんは無事に戻って来るのだろうか。それとも、僕がここから助けに向かう方法は無いだろうか。そんな事を必死で考え、物置の中をうろつきまわり、戸や壁を掻いたりしていた時だった。
『やめて! 痛い!』
突然外からまこちゃんの叫び声が聞こえ、すぐに僕は戸の前まで飛び出した。
『誰が余計な事を言えと言った!? 黙って総括に集中しろ! 自分のしてきた悪事を言え! 振り返って自己批判せよ!』
『私、何も悪い事なんかしてない!』
『嘘をつくな! 警察がどれだけ労働者の味方である革命戦士を弾圧してきたのか知らないのか!』
さっきとは別に、複数の男の怒鳴り声とまこちゃんの泣き声が聞こえる。
何だ、何だ、何が起こってる。
僕は少しでも早くまこちゃんの元へ駆け付けようと、助走をつけて思い切り物置の戸へ体当たりした。しかし戸は少し軋んだだけでびくともせず、逆にせっかく引きかけて来た体中の痛みが振り返して来た。
『革命を妨害する者は子供でも許さん! このっ、少しは弱者の痛みを思い知れ!』
『痛い! 分かったから叩かないで! お願い!』
まこちゃんの声は泣き声というよりも悲鳴に近い。それだけでなく、何かで酷く叩かれているような音も聞こえてきた。またまこちゃんは連中に叩かれている。それももっと酷い方法で。
僕は怒りも通り越して頭がどうにかなりそうだった。とにかく早くまこちゃんの元へ駆け付けて連中をどうにかしないと大変な事になってしまう。けれど、どんなに早く駆け付けたくとも、目の前の戸が僕の前に立ちはだかり頑として道を譲ろうとしない。何度も体当たりを繰り返し、全身があちこち痛む。それでも僕は止めなかった。今まこちゃんを助けられるのは自分しかいないのだ。
『このっ、このっ、どうだ思い知ったか、官憲の手先め』
『お願い、やめて! 痛い! パパ! ママ! 助けて!』
『甘ったれるな! 誰も来はしないぞ!』
悲鳴のような声を上げて必死にお願いするまこちゃんだけれど、連中は一向に叩いたり怒鳴ったりを止めようとしない。何とかして止めさせたいのに、戸はびくともしてくれない。これだけ必死で頑張っているのに、どうしてこう思い通りにならないのか、いつしか僕は自分さえも腹立たしくなってきた。だから僕は落ちこぼれてしまったのか、そんな昔の事さえも脳裏を過ぎる。
何度も繰り返しぶつかって、体も疲れ果てて思うように動かなくなってきた。それでも繰り返している内に、僕は、戸を破るためにぶつかっているのか、そうでもしないと自分が許せないのか分からなくなってきた。やがて最後にはその場にへたりこみ、まだ続いているまこちゃんの悲鳴を聞き、枯れた声で何度も不甲斐なさを謝った。